火水 #1/4
一
いまの隅田川こそは元荒川、その名の通り往時は荒ぶる川であり、豪雨のたびに下流域は水災害に見舞われた。
元荒川左岸(流れに向かって左だから、北を上に地図を見れば右岸)には、家康入府以前より熊谷から向島まで堤が形成されていたとされ、これをまず整備して荒川堤、墨田堤とし、続いて右岸(地図左)の自然堤防を、その南端に位置した待乳山を崩してその客土でもって補強したのが日本堤で、以来、大雨のたび、墨田堤と日本堤とがVの字に水を堰き止めて、その北側に、時ならぬ広大な遊水池を出現せしめたという。
ちなみにV字の南端が今にいう山谷、日光街道第一の宿場町、千住界隈だったから、もとより木賃宿がひしめきあい、近くに小塚原の刑場もあった。地名にのみ残る泪橋の二文字に、春をひさぐ者らの悲哀と、刑場に引かれる者らのそれとが刻印されるよう。
また日本堤といえば、明暦の大火ののち人形町にあった遊郭が堤の南側に移された、それがかの吉原で、「かよい馴れたる土手八丁」などと通人に詠われ賑わった。墨田堤は桜の名所として知られ、往時の艶やかぶりは国貞や広重の錦絵が今によく伝えるが、百本、百五十本と気前よく植えられたのは吉宗治世の享保年間で、これからご覧入れる天和の小景に、残念ながら桜はお目見えしない。もっとも時節からして、梅雨明けの、温風吹き込む夏のことである。
火事と喧嘩は江戸の花。
江戸幕府開闢以来の二百六十余年、それは治水の歴史であると同時に火事の歴史でもあった。大火だけでもじつに五十件に迫る。木造家屋のひしめく街は、あれよという間に類焼する。類焼を防ぐべく屋根瓦が推奨されるも、その重量に耐えるには大黒柱からなにからたしかなものを調達して普請せねばならず、もとより庶民にその余裕はなかった。
殊に冬は北西のからっ風に煽られ火の手は迅速で、江戸城の本丸も五たび焼失している。明暦の大火では天守閣が焼け落ちて、以来再建されることはなかった。
かくて、城の北西方向にあった武家屋敷はことごとく移転を迫られ、火除け地として更地にされたが、それが今に伝わる上野広小路。あわせて現在「都下」とひと括りにされる地域への移住と開発が進んで、大都市東京の下地が作られていくのでもある。
天和年間の大火といえば、「天和の大火」ひとつ記録されるのみだが、その他名もなき火事やら小火やらを数えれば天和の四年間だけでも二十余件に及び、江戸の花の面目躍如とするところではある。ちなみに放火の場合、火付人が数えで十五未満なら遠島、十五以上なら市中引き回しの上、火あぶり、と定められた。
天和年間のさる小火騒ぎこそはここに語られる小話の端緒となるが、念のため付言しておくと、この小火、天下に知られる八百屋のお七の仕業によるものではない。火の不始末のため、彼女の火刑に処せられるのが天和の大火の翌年なら、当話の小火騒動はその前年に出来する。
しかし必ずしもお七と無関係でないところがまた運命の皮肉というものであり、もってこの一宵話の梗概としたい。
火水 #1・了
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