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文体練習 vol.1「感謝について」

 小学生の、二年生だったか三年生だったか。

 感謝をテーマに作文を綴ることが事前に宿題として課されていて、授業参観のとき、選ばれた数名が教師に指名されて元気よく読み上げた。それがことごとく両親への感謝を述べるもので、大いに面食らったのを光央は昨日のことのように覚えている。全員が全員、父と母にありがとうを高らかに宣言するので、そのような模範的な内容を含まない作文を書いてしまったことを暗に責められているとも感じられたし、背後に立って見物する父母らの、なかには涙ぐむのらしい感傷的な空気を感じ取りながら、産んでくれたり、遊んでくれたり、朝早く起きて弁当を作ってくれたりするのは当たり前のことで、感謝に値することではないのではないかと、誰にともなく憤慨していたこともありありと思い出される。特に産んでくれて……のくだりは、特段生まれてきたことに不満があるわけではなかったが、頼んで産んでもらったわけではないから釈然としなかった。

 音読された作文も含め、生徒全員の作文が廊下に張り出されてあった。もちろん光央の作文も。
「なんだ、あの作文は」
 帰宅するなり父親が憤慨して、どういうわけか光央でなく母親をなじった。そして母親は、父親のいないところで光央をなじった。

 子どもを持つ年齢になって、時折年端もいかぬ子らが折り紙の裏などに「パパ、〇〇してくれてありがとう」などと拙い字で書いて、それが食卓の上に置かれてあるのを認めたりすると、遅帰りの父親は必ずしも目を細めるわけではない。感謝の気持ちを持つことは、謙虚な生き方に通ずる早道などと、有象無象の似非開悟者が、求められもしないのに鹿爪らしく説きにかかる昨今だが、感謝乞食と光央は内心せせら笑っている。

 日本人は礼儀正しいとか、親切だとか、そんな美辞麗句を見たり聞いたりすることも少なくないが、そういう甘言に酔う人間にかぎって言動が押し付けがましいとも感じる。
 ふつうでよいよ、ふつうで、と光央は折り紙のメモを丁寧に折ると、ゴミ箱に放る。幼少時、誕生日プレゼントを受け取って、さっそくその包装紙をビリビリと破いたら、くれた人がえらく傷ついた顔を向けたのを、ちらと思い出しもする。

 ふと夜中に目が覚めて、ゴミ箱に捨てた折り紙のメモが子どもたちの目に触れないだろうかと気になりだすのは、まったくもって煩わしいことだし、余計なことだと光央は我ながら忌々しく思うのだった。

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