わたしがわたしをいちばん大切にする、という、自分との約束(Engagement) vol.2
vol.1の続きになります。
もしよろしければこちらからご覧下さい*
『自分を大切にする』という思考、在り方と真逆の生き方をしてきてしまったわたしは、どうすればいいの?
さて、憧れのお店で念願のリング(と、おそろいのピアスまで!)をお迎えしたわたしは、
果たしてこの行動がただのカタチばかりのミーハーで終わらないだろうか? と、ひとかけらと呼ぶには大分重い疑問も一緒に持ち帰ることになりました。
(勢いあまってこんなことをして、さみしさでただ散財しただけなんじゃないのかな…?)
そんな風に落ち込んだ日もあります。その頃のわたしはまだ体調が不安定で、数万円のお買い物は大きな決断だったのです。
けれど、一度決めたことです。
前に進むしかありません。
何より、そうやって気持ちが後ろ向きになる度に、それこそが自分自身に対する信頼の欠如であると思い直し、
指輪を見つめながら、
「大丈夫。もう、人に依存してばかりの自分から変わるために頑張るんだ。この指輪はその日々を励ましてくれるもの。弱さと甘えと決別する証。わたしはわたしと約束したんだ。」
と、言い聞かせるようにしていました。
そんな自分になれる根拠はどこにもないのに――――と、この、ただ自分の意思と指輪ひとつを頼りにした確認行為を支えるには当時のわたしの精神は未熟すぎて、もう自分の苦しみや悲しみを誰かのせいにすることは出来ないのだという現実に毎日、毎日、堪らない不安がこみ上げ、依存心が首をもたげる度に数え切れないほど泣きましたが、
自己否定しそうになる自分を根気よく宥め(以前は、ずっと、それを他者に求めていました。)、
自分という存在の大切さを無条件に確かめること(『愛してるよ。』と、いうこと――――)を繰り返していたら、
やがて、指輪を見つめながら行う確認に言葉は不用になり、
やわらかくきらめくホワイトオパールをそっと撫でるだけで気持ちが落ち着くようになってきました。
*
自分との約束のために用意した大切な指輪なので、宝石には特別な意味を持たせていました。
ホワイトオパールはその美しい遊色の様から、自由と希望、幸運を象徴するといわれています。
自由と希望。
依存したい、ということは、誰かに支配されている方が楽であるという思考回路を行動パターンを持っているということであり、
当時のわたしにとって自由とはもっとも恐ろしい状態でした。
自由って、なに?
自由に振る舞っても愛されるだなんて……本当に?
相手の機嫌を伺わなくても愛されるだなんてことがあるのかな?
分かりませんでした。
実感なんてもっての外です。
実は、この、『依存的ではない自分に、自分で自分を大切に出来るわたしに変わる。』という、幸せに生きるための決意を与えてくれた今の恋人と出会う前まで、わたしは酷く支配的な男性とお付き合いしていました。
非常に重たい話になるので割愛しますが、
十代の頃から、彼はわたしにあらゆる恐れを植え付けました。
生き方に対して、洗脳的でした。
愛であると信じていたかった、純粋な愛と呼ぶには歪んだもの。
しかし自己愛が著しく欠如していたわたしは、彼の愛を失わぬようにと従順であったのです。
(彼を悪者にしているのではなく、当時の究極的に依存癖を持った自分がそこにマッチする彼という人物を引き寄せ、必要な学びを体験していただけなのだと、今は自分の過去を受け容れています。)
だから、自由が怖い。とてつもなくこわい。
自由になったら死んでしまうのではないかと感じるほどに。
だけど、変わりたい。
ほんとうに大好きな人に出会えたから。
手を繋いで歩いて、その人の笑顔を見つめているだけで
誰よりも幸せな心地にしてくれる人に、生まれて初めて出会ったから。
幸せになりたい。
幸せを守れる自分になりたい。
恋人をほんとうに愛せるわたしになりたい。
恋するだけではなく
大切な人を心から愛することのできる、自立した女性になりたい――――。
それなら、この怖さを越えていかなきゃ。
ひとりでも平気な自分になって初めて、大好きな彼の傍にいられるのだということが分かったから。
当時のわたしにとって、自由とは暗闇。未知のおそろしいもの。
けれど、指に嵌めたオパールは
それとは真逆の、まるで青空に浮かぶ彩雲のようなおだやかさできらめいています。
わたしは、常に人の顔色を伺い、他人軸で、自分を大切にして生きてこられなかったこれまでの思考回路より、
まだ自分の体に馴染んでいない、
もう何事も他者のせいにすることなく、いついかなるときも自分自身を大切に扱う選択を優先する、という思考と行動を採用することに決めました。
(つづきます。)