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病院薬剤師が語る歴史人物数珠つなぎ    「道長と藤原摂関家」編❿藤原不比等

もし薬学の道を選ばなかったら日本史の先生になりたかった私、病院薬剤師だまさんによる、ちょっとマイナーな歴史上の人物を紹介するブログです。

本シリーズでは、摂関政治で頂点を極めた藤原道長を起点に、その祖先から子孫に至る流れをたどっていきます。

今回は、藤原氏の実質的な祖・藤原不比等です。

道長の尊属を遡るのはここで打ち止めです。


不比等が出世できた理由

藤原不比等(史)は中臣(藤原)鎌足の次男です(659-720年)。

草壁皇子と持統から元正に至る4代の天皇に仕え、大宝律令や日本書紀の編纂に関わり、文武・元明・元正天皇の擁立に貢献しました。

「大鏡」を始め多くの歴史書では、天智天皇の落胤と記されています。

かねてより私には藤原不比等には釈然としない点がありました。

それは、父・鎌足の後を継ぎ近江朝(大友皇子)側だった不比等が、なぜ敵方の天武朝(大海人皇子)に重用されるに至ったのかという点でした。

調べてみたところ、壬申の乱の際、まだ14歳であった不比等は処罰の対象とはならず、咎を受けずに済んだためだとわかりました。

とは言え、中臣(藤原)氏の有力者が朝廷の中枢から一掃されたことで、不比等は下級官人からの立身を余儀なくされました。

後に不比等は草壁皇子(天武天皇の息子)に仕えますが、わざわざ好き好んで敵方(近江朝)につながる人物を登用するものでしょうか?

やはりそこには二人の父(中臣鎌足・天智天皇)の威光が見え隠れします。


蘇我氏・物部氏との関係性

蘇我氏は645年の大化の改新(乙巳の変)、物部氏は587年の神仏紛争(丁未の乱)でそれぞれの宗家が滅亡しました。

しかし、その傍流はその後も生き延び、歴史の舞台に時折登場します。

蘇我娼子は不比等に嫁ぎ、武智麻呂・房前・宇合を産みました。

娼子は宗家・蘇我馬子の曾孫であり、その血筋は藤原摂関家に引き継がれることとなりました。

氏として成立したばかりの藤原氏に、伝統のある蘇我氏の地位を受け継ぐ氏であることを支配者層に示すことができたことは大きかった筈です。

物部(石上)麻呂は壬申の乱では近江朝についていました。

自害した大友皇子の首級を差し出したことで忠誠心が認められ、大海人皇子(後の天武天皇)に重用されます。

麻呂は政治の中枢に君臨し、左大臣にまで昇りつめました。

当時右大臣であった不比等にとって、麻呂は上官だったことになります。


皇族との関係性

天武朝(637-686年)

従兄弟の中臣大嶋とともに草壁皇子(天武・持統天皇の子)に仕えたとみられています。

持統朝(690-697年)

不比等が飛鳥浄御原令の編纂に参加していたとする説があります。

文武朝(697-707年)

持統天皇の譲位により即位した草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしました。

阿閇皇女(元明天皇)付き女官で不比等の後妻となった県犬養三千代の力添えにより皇室との関係を深め、文武天皇の即位直後には娘・藤原宮子が天皇の夫人となります。

文武天皇と宮子の間には首皇子(聖武天皇)が生まれ、さらに三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせました。

光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって皇后となり初の非皇族の人臣皇后となったのでした。


不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めています。

氏寺とは?
古墳に替わり、飛鳥時代より有力氏族や王族の新たな祭祀儀礼の場として造られるようになった仏教の寺院のことで、中世以降は菩提寺とも呼ばれるようになりました。

(代表的な氏寺の例)
法隆寺(斑鳩寺)➤ 聖徳太子
飛鳥寺(元興寺) ➤ 蘇我氏
興福寺 ➤ 藤原氏
薬師寺 ➤ 天武天皇


鎌足・不比等の時代を理解するにはこの作品が最適です。

また、不比等が主役のこの作品も大変面白いです。

不比等が稗田阿礼と同一人物だったという大胆な仮説をもとに、古事記の編纂の経緯や偉大な父・鎌足の足跡をたどる物語です。

※連載打ち切りなんてやめて~。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

次回からは(と言っても1話完結ですが…)道長の長男・藤原頼通です。

「下の子が勝つ」というタブー(!?)を犯してまで道長が跡を継がせた頼通による摂関家の爛熟期を紹介します。

お楽しみに。


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