【アーカイブ/エッセイ】重層化する日本の美意識
※このエッセイは2000年11月に脱稿したエッセイです。拙老の美術エッセイとしては初期作に属します。
Summary
本稿は、日本という文化圏が存在するという前提のもとに考察した日本文化における美意識の特色についての試論(私論)です。
本稿において、日本の文化は、明瞭な地層(レイヤー)を成していて、かつ、その古いレイヤを現在まで連綿と良く残していると特徴づけています。
1 日本文化の成層性
岡倉天心は日本文化を海の波打ち際に喩えましたが、一般的に文化は、いずれの文化でも必ずといって良いほど、その歴史において他の文化との交流・融合あるいは衝突を経ながら、変遷を遂げてきているといえます。特に日本文化は、例えば中国文化など海外文化と積極的に交流した時代と、逆に交流を断ち国風文化を成熟させた時代(鎖国ということもこの中に含まれます。)の、大きく2つを両端として、その間を振り子のように振れながら、変遷を辿ってきたものと特徴づけることができると考えられます。
そして、そうした〈振れ〉(注)の中で、日本文化は、他の文化に比べて明瞭な地層=レイヤーを形成してきたといえます。これはあたかも日本の変化に富んだ四季によって、樹木の年輪が形成されることにも酷似しています。なお、もちろん、この文化の地層は、下層レイヤーほど時代が遡るわけですが、下層レイヤーほど、周囲の文化の影響を受けにくく、また、時間的にも変化しにくいレイヤーであることは容易に想像されます
また、この日本の文化のレイヤーは、古層が無くなったり、崩れたりせずに極めてくっきりとレイヤーになって残っており、かつ、あたかも崖の切り通しのように、いわば断層が表面にむき出しになって鮮やかに表れていると比喩できます。これに対し、欧米の地層は、古層の多くの部分が土壌流出してしまい、その上に新しいレイヤーだけが堆積している、または、古い地層が見えにくいという構造になっているというふうに対比することができると思います。なお、同様な趣旨の記述が以下の著作の中にありますので列挙してみました。
2 潜在古層の美意識の顕在化
さて、ここで、この地層に喩えた考え方を精神分析学の分野にアナロジックに敷衍・照射してみますと、C・G・ユングの集合的無意識理論と通底しているといえます。この理論によりますと、ある個人の精神の深層意識部分の地層は、最古層に生物としてのレイヤー、そのひとつ上に人類という種としてのレイヤー、更にその上に民族としてのレイヤー、その又上に郷土・地域としてのレイヤー、その上に家系としてのレイヤー、その上に幼児期のレイヤーというように層を形成しているとしているとしています。-—―なお、最古層のレイヤーの下に前世のレイヤーや人類の祖先のレイヤーが存在するというややオカルティックな亜説もあるようです。
ところで、精神分析学によれば、これら無意識のレイヤーが、ときどき意識レイヤーを攪乱することによって、神経症などが発症するのであるとしています。これをこんどはもう一度逆に文化の議論にアナロジカルに敷衍化してみますと、(特に岸田秀理論によれば)これら文化の古いレイヤーがときどき新しい文化レイヤーに対し反乱を起こし、国家という集団が神経症を発症するということに相似しているといえます。日本の歴史における外圧による開国と鎖国の繰り返しや、米国に対する極端な憎悪と媚びへつらいが交互に現れる分裂病理がこれで、欧州における典型例は、ヒトラーという古層の出現であるいえましょう。
また、精神分析学では、この無意識の反逆、つまり、神経症は、基本的には無意識の意識化によってしか克服できないとされていますので、これを文化の問題に照射すれば、我々は如何に自身の文化の古いレイヤーを意識化するか、言い替えれば、意識下に潜み無意識化している美意識を如何に意識化していくかということが最重要な課題なのではないかといえるわけです。
3 日本文化の古層の例(音楽)
さて次に、今日に至るまで連綿と脈々と引き継がれている日本文化の美意識の古層の具体例について、論考を進めてみます。
まず、音楽の分野で事例をあげれば、日本の場合、〈さわり〉のように濁った音を意識的に発生させて、それも楽音として用いたりします。これは、言ってみれば、漢方薬です。西洋医学系の薬剤においては、どの成分がどの病気・症状に有効なのかを論理的・実証的に分析・検証し、その結果として有効成分とされたものを純粋に抽出(又は化学的に合成)して処方することを特徴としています。
これに対し、漢方薬では、分子レベルまで有効成分を純粋化することはせず、ある薬草なりを基本的にはまるごと(厳密には煎じることによって抽出することが多い。)処方します。その中には様々な成分が含まれていますが、そのいちいちを有効かどうかまでは選別することはしないことと対比できます。ちなみに、これは未知なものは未知として留保しておくという不可知論的な仏教思想にも通底しているとも考えられます。
つまり、純粋化(さらには論理化)された音を楽音とする西洋音楽に対し、さわりに典型的にあるように雑音も含めた音に美意識を持つ東洋音楽とに対比できるわけです。このことは、秋の虫の音に情感を受ける日本人の美意識とも通底しているといえます。欧米人が鈴虫などの虫の音を聞いてもただの雑音としか聞こえないそうですが、これは、日本人と欧米人の右脳と左脳の使い分けの相違に由来しているとの説が大脳生理学の見解だと聞いています。日本人がさわりによる雑音的な音に美を感ずるのは、このことも深く関わっていると考えられ、また、佐野清彦氏が、『音の文化誌|東西比較文化考』(平成3年7月、雄山閣出版)の中で触れていますが、食事のマナーにおいて、洋食が音を立てることが厳禁であるのに対し、日本食の場合、例えば、そば、お茶、せんべいの場合などのように、音をわざわざ立てたりすることもあることは、このことに関係していると考えられます。
なお、『はじめての音楽史』(白石美雪等著、音楽の友社)では、このような雑音を含む楽音に対する美意識は中国、韓国、インドまで広く東洋に見られ、特に虫の音に感興するのは南太平洋の諸島国民の感性にもみられるとしており、日本人の感性の雑種性及び南洋諸島文化との近似性を示唆しており、更に興味深いと思います。
4 日本文化の古層の例(美術など)
次に美術の分野に目を転じてみれば、陶芸においては、無釉焼締、灰釉、自然釉系(信楽、丹波、備前など)の陶器に美を感ずる美意識にも通底しているとも考えられます。自然釉の様々なオートマティズム的〈景色〉は欧米人にとって汚れ=雑音としか感じないと想像できます。欧米人や中国人が好むのは、きれいな模様が画かれている磁器系(伊万里、九谷など)です。なお、中国ではこの手の磁器系の出現により陶器系は完全に駆逐されてしまっています。
絵画の分野においても同様に、日本においては、いわゆる油絵に対して、日本画(ただし、単に技法として残っているきらいはありますが)が駆逐されずに連綿としてその伝統を残しています。これに対し、その源流である中国においては、既に漢画の技法は消滅してしまったということだそうです(NHK『新日曜美術館』より)。
以上のように、焼き物における磁器から陶器、無釉焼締への変化を出川直樹氏は『やきもの鑑賞入門』(とんぼの本、新潮社)の中で、〈驚くべき進化の逆行〉と言っています。また、佐野清彦氏は、前述の著作の中で、さわりという機構を開発した三味線や、わざと雑音を増やすために太く進化した尺八をこの逆進化の事例として挙げています。私は、この逆進化=退行について、C・G・ユングの〈創造的退行〉という概念との通底性を考えずにはおれません。
更に、芸術以外の分野にも敷衍化してみると、仏教(密教)、社会体制(天皇制)についても同様のことがいえます。このように見てくると、文化という地層の重層化は、日本の文化の構造に通底している現象であると考えられるのです。
ちなみに、ここで、天心の比喩をもう一度引いて、日本列島を海外からの文化という波に洗われる波打ち際とするならば、その一番陸地側の際は青森県であると考えられます。そして、私は、その結実として、土方巽(正確には秋田県生まれ)、寺山修司、棟方志功、そして津軽三味線をあげたいと思います。彼らは、日本文化の最古層から直接出現したとも思えてならないのです。
(参考文献)
『歌謡曲の構造』小泉文夫(平凡社ライブラリー'96年発行)
『J-POP進化論』佐藤良明(平凡社新書)
『やきもの鑑賞入門』出川直樹(とんぼの本、新潮社)
『音の文化誌|東西比較文化考』佐野清彦(雄山閣出版)
『はじめての音楽史』白石美雪ほか(音楽の友社)
『新日曜美術館』NHK