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【アーカイブ/鑑賞レポート】骨董店と現代美術画廊、「小品」考
※このレポートは2003年5月に脱稿したものです。
愚老若かりし頃(1970年代後半)、銀座の画廊巡りは、いわゆる現代美術系の貸し画廊にしか行かなかった。ところが最近は、年齢のせいもあろうが、いわゆる売り絵の画廊や古美術・骨董店の系統も覗いてみようという気になっている。(と言って、コレクターにはそもそもなれはしないだろうが・・・。)心は美術(ファイン・アート)を見ようとしているのだが、目は、現代美術だろうが、売り絵だろうが、古美術・骨董だろうが、工芸品、はては小間物、グッズだろうが、同等に見てしまう。否むしろ見えてしまうという感覚に近い。
こういった私的感想を一挙に敷衍化するという暴論を試みるとすれば、「前衛芸術の時代」が終わってしまったことを意味しているのかも知れない。いずれにせよ、大きな美術館に堂々と置いてある大作の現代美術作品よりも、(当然ながらもちろん、作品の質の良し悪しによるが、)小さな店の小さなものに心引かれてしまうのはなぜだろう。
銀座の資生堂ギャラリーで「小品考」という企画展が開催されている(2003年5月25日まで)。また、この展覧会の関連企画で、出品者のうちの辰野登恵子氏、鷲見和紀郎氏の2人のトークも聞きに行った。まず、学芸員氏(お名前失念のため失礼。)から今回の企画意図の紹介があった。最近の現代美術の大作主義があまりにも「美術館のための美術(ミュージアム・ピース)」に偏りすぎているとし、その批判として小品だけの展覧会として企画したとのこと。
その企画意図が必ずしも展示にストレートに反映されてはおらず、また、トークでは小品に関し深く掘り下げた発言があまりなかったのが少々残念だったが、学芸員氏がその発言の中で、御茶ノ水の東京ワンダーサイトで開催されていた「0号展」における石原慎太郎 東京都知事のコメントを紹介していた。曰く「最近の絵描きがやたら大きい絵を描き過ぎるのは自信がない証拠だ。本当に上手い絵描きは小さな絵も描ける。そしてその作品が鑑賞家の生活空間で愛玩されてこそはじめて意味がある。」(同サイトホームページより全文引用)
学芸員氏と石原氏に全く同感である。私は、この「0号展」は見逃してしまったが、この「小品」の問題は重要であると考えている。拙稿「退行する日本の現代美術」にも書いたように、日本の戦後の現代美術は、米国の抽象表現主義以降の動向の圧倒的な影響のもと、現在まで大作主義が蔓延っている(いた)。貸し画廊で個展をやるにしても、メセナ系のコンペに応募するにしても、美術館の大きなホワイトキューヴにしか飾りようのない大きさの作品ばかりである(あった)。
渋谷の東急文化村の近くにギャラリエ・アンドウという画廊があるが、このギャラリーは作家・作品からみればいわゆる現代美術の系統なのだが、いわゆる貸し画廊ではなく画廊主の企画による個展が行われており、また、基本的に小品しか扱っておらず、作品を販売することに主眼が置かれているようである。この画廊に偶然出くわしたとき、(現代美術系画廊の)何か新たな画廊のあり方を感じた。いうなれば、現代美術版の骨董店のような趣がある画廊であると思った。
ある意味では(「もの派」と並んで、)戦後日本のアヴァンギャルド美術のひとつの究極のタイプを示したと言ってよい「超芸術トマソン」の赤瀬川原平が、このところ、古美術やら白洲正子に惹かれているのも大いに心情として首肯できる。この系譜をたどれば、柳宗悦の民芸の思想にも通底するものともいえよう。つまり、実生活に有用な物の美である。芸術を身近な生活の場に引き戻すということである。近代絵画とは何かという定義の最も有名なもののひとつであるモーリス・ドニの「絵画と称されるものは、軍馬とか裸婦とか、あるいは何らかの逸話である以前に、本質的に一定の秩序のもとに配された色彩で覆われた平らな面である。」という至言をもう一度折り返し、「絵画とは、色彩で覆われた平らな面である以前に、室内を飾る品であったり、祈りのための偶像(イコン)であったりといった、何らかの使用目的をもった道具である。」ということになろうか。W・ベンヤミン流に換言すれば、「礼拝的価値から展示的価値へ」が折り返り、「展示的価値から使用的価値へ」ということになろうか。
ついでながら、旧来の現代美術系の貸し画廊は、訪問者に作品を買ってもらおうとは更々思っていないから入りやすいが、売り絵の画廊や古美術・骨董店は、さしずめ「ひやかしはお断り」ということだろうから、どうも二の足を踏んでしまう。