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映画『怪物』を観て(ネタばれあり)
2023年6月2日、映画『怪物』を初日舞台挨拶付きで観た。
少し経ってやはり思うことがあるので、残しておくことにする。
まず作品について。
私は面白かった。
3つの視点から語られる一つのストーリーを追う展開。
エンタメとして面白かった。とてもよくできた映画だと感じた。
だが、それは私が当事者でないからそう思うのかもしれない。
そう思い始めたのは一晩経ってからだった。
ラストシーン。明るい草むらの中を湊と依里は楽しそうに走っていく。
この部分の解釈によってこの映画の印象は大きく変わってくると思う。
私はこのラストシーンを『希望』と解釈した。
湊(黒川想矢)と依里(柊木陽太)は、「生まれ変わる」ことはなくても、二人とも自分のあるがままを受け入れて解き放たれた、と解釈した。
二人の関係性に気づいた湊の母(安藤サクラ)と保利先生(永山瑛太)は、彼らのあるがままを受け入れてくれるだろうからと。
しかし、一晩経つと、それは非常に楽観的、かつ都合の良い解釈なのではないかと思い始めた。
現実的に考えたら、依里の父(中村獅童)は、この先依里への虐待をやめるわけではない。
そして、依里の転校(祖母の家への引っ越し)がなくなったわけでもない。
そうすると、このラストシーンは、彼らの夢の中の世界、もしくはこの世ではない世界を表しているのかもしれないと思うに至ったのだ。
そうであれば、このラストシーンは『希望』や『救い』ではないのではないか。
そう思い始めてから苦しくなった。
この映画については、カンヌで受賞した『クィア・パルム賞』をめぐり、論争が起きている。
発端は、是枝裕和監督が受賞に際して「この作品は、LGBTQに特化した作品とは考えていない」と発言したことを受けてのものだ。
送り手が「この映画のクィアネスには触れないでほしい」とし、作り手が「クィアの話ではない」という日本映画『怪物』が、国際映画祭の場で「クィア」と冠された賞を受賞するのはあまりにも皮肉だとおもう。彼らにとって「不名誉」であるはずのこの看板を、どう掲げていくのだろう。 https://t.co/iLhDpHaktE
— 児玉美月|Mizuki Kodama (@tal0408mi) May 27, 2023
この部分については、映画を観てから判断しようと考えていた。
観終わって感じたのは、この映画は間違いなくクィアの物語だということだ。
おそらく、大きなくくりで考えれば、この映画は『クィアなど「きっとどこかにいる孤独な誰か」(脚本:坂元裕二)』に向けて作られた作品なので、監督の言う「LGBTQに特化した作品とは考えていない」という文言は一部では合っているとは思う。
しかし、明らかにクィアの少年たちが主題の映画である。
これはクィアの物語である。
しかし、この部分は頑なに伏せられている。
そこが大いに疑問なのだ。
前述の通り私はこの映画の初日舞台挨拶に参加した。
そこでは、坂元裕二氏が受賞した『脚本賞』については大いに取り上げられた。しかし、『クィア・パルム賞』についての言及は一言もなかった。司会者からの質問にもなかったし、監督からのコメントもなかった。
なぜだ?
もし本当に映画を観る前にその情報を入れると『ネタばれ』になると考えているのであれば、クィアの設定をネタとして扱っていることとなるのではないか。そう思ってしまう。
クィアの物語だと分かってみたとして、この映画の価値が、面白さが損なわれるだろうか?私はそう思わなかった。
だからこそ、非常に残念なのだ。クィアのための映画だと言ってほしかった。
これは映画を観終わってすぐの私の思いだった。
今は、少し異なってきている。
それはなぜかというと、前述の通りラストシーンの解釈に疑問が生じたからだ。
もし、これが救いや希望を意味したラストでないのだとしたら。。。
その場合、非常に辛い映画となってしまう。
インタビューでの発言やパンフレットを読むと、是枝監督がクィアの設定を消費するために利用しているわけではないだろうことはわかる。
そして、坂元氏もパンフレット内のインタビューで、「アイデンティティに葛藤する、葛藤させられる少年たちを、映画の物語として利用してはいけないということです。」と述べており、作り手側はクィアの設定について真摯に向き合っていたことが伺われる。
だがしかし、なのだ。
ここでまた児玉美月さんの一連のツイートを引用したい。
私はこのツイートの内容に全面的に賛同する。
そして名前の知られた映画評論家である彼女が、実名アカウントでこのような意見をツイートしていること、その勇気にも強く賛同する。
ひとつだけ。是枝監督のことは映画や著書などにこれまでずっと触れてきた身として深く尊敬しており、他の主題と同様ジェンダーやセクシュアリティに対しても監督自身が真摯に向き合っていることは重々承知の上で、あくまでも作品の広報や構造に考えるに足るべき問題があるのではないかということ。
— 児玉美月|Mizuki Kodama (@tal0408mi) June 1, 2023
そうした要素がある映画だと事前に全く明かさないのと、はなからクィアな/かもしれない子供のことも同時に描いている映画なのだとするスタンスとでは、受容の在り方がまったく異なってくる。前者でしか成立しないとしたらそれが明らかにするのは、作品がどの属性の観客の方を向いているのかなのでは。
— 児玉美月|Mizuki Kodama (@tal0408mi) June 1, 2023
この映画は間違いなく美しいからこそ「批判的に見つめる必要がある」。そうした構造の上で誰かにとっての気づきを齎す一方で、描かれている子供たちと近い当事者性を持つ観客がどう感じうるのかを注視していきたい。クィアなテーマが描かれる時、作品がどこを向いてるのかという視点を蔑ろにできない。
— 児玉美月|Mizuki Kodama (@tal0408mi) June 1, 2023
いまの日本でこの問題を現実的に描くなら、差別的暴力的表現は免れないでしょう。私が懸念しているのは、知らずに観た当事者性の高い観客がいかに傷ついてしまうかに尽きる。だからこそ作り手や送り手には、何も触れないのではなく、君たちのことを真摯に向き合って作ったのだと、言明してほしかった。
— 児玉美月|Mizuki Kodama (@tal0408mi) June 1, 2023
このツイートの内容も踏まえて言えば、映画のラストシーンについては、もう少し希望を感じられるような明確なメッセージを出してほしかった。
今のままでは、希望とも絶望ともとれるラストシーンなのだ。私の解釈は揺れている。
そして、この映画は、G指定(全年齢が鑑賞可)となっている。
年齢の低い当事者が観る可能性もある。
そう思うとなおさらクィアな映画であることをもっと表示すべきではないかと思うのだ。
もう一度この映画を観てみようと思う。
私の解釈は変わるのだろうか、どうだろうか。