「ほんとうの自分」の片鱗は実は過去に一時的に体験したことがあった感覚かも

「ほんとうの自分」てなんのこっちゃと昔は思ってました(笑)

どういう状態がそれなのかわからない

誰も教えてくれない

というより、それを表現されている方のニュアンスがどうも自分には漠然としていて、イマイチ自分の状態に当てはめてもよくつかめない

そんな印象でした

今振り返って思うのは、過去にそれらしき体験をしてました!それが「ほんとうの自分の片鱗」かなーと思います。

昔、ごくたまーに感じていた感覚

とある休日に、丸一日、何するか決めずに、思いついたまま行動できた日にだいたい感じていたあの感覚、その時も気分よかったし、1日を振り返った時も気分よかった記憶があります。

考察するに、いつもは、○○しなければとか、仕方ないとか、自分以外の何かを優先的に配慮し妥協の日々の中、その休日だけは自分のしたいことをおもいっきり優先的に許可できた日でした。

罪悪感なく、こねくりまわすことなく自分の思いをまるごと受け入れて行動できた日。全ての自分の不快な思考の制限から解放された1日を過ごせたからだと思います。

制約なしに自由に、時計も気にすることなく、計画立てずに、随時思いつくまま、買いものして食事して~

しかも、買いものも、例えばこのデザインあんまりだけど安いからとか、色が気に入ってるからまいっかという妥協もなく、すべてに満足のほんとうに気に入ったものを買うとか。

食事も「お昼の時間だから」で食べるのでなく、お腹すいたなーと思った時に。そして値段に関係なくその時のお腹の状態を自分に確認して食べたいものを食べる~❤️とか

縛られるものなく、自分の中の抵抗意見すらなく、妥協もなく、ありとあらゆるものの選択の時、自分以外を基準に判断しなかった日!

自分の感覚だけに忠実に正直に行動できた日!好きなものだけを選択できた日!

今まで自分以外に向いていたエネルギーが自分に戻ってきた感覚❤️

その気分自体は人それぞれかもしれないけれど、きっとそういう感覚、体感は一時的にあるんじゃないかなー。丸1日でなくても、なんにも支配されずにいられた時間帯とか。

それが毎日続いたらいいのにーできたらいいのにー(でもできっこない)と思っていたのを思い出しました。

人生は我慢がつきものと思ってました。だから、その枠から出られずにいたのかもしれません。出られるものという発想がそもそもなかった。人生をそういうカテゴリーに入れていたから。今だから言えますが、ほんとうにハマりやすい思考の罠にまんまとハマってました。

自分の不快な思考に操られずにいる練習をすることで、そういう生活ができるようになりました。急な変化は自分も理想とギャップの差に追い付いていなくて体に染み付いていない状態だから崩れやすくもろい。慣れるまで少しずつ差を埋めていって浸透させていくのがスムーズかなと思います。時間はかかるけれど、だからこそ土台が安定し、自分も回りも変化を受け入れやすい気もします。

昔は、物事を通して、随時自分にとっての心地いいバランスがどこなのかの基準を大海原で探す段階だったんだなーと思います。

トライ&エラーしてきたからこそつかめたものがあります。

そしてだいたいがつかめたらさらにもっと詳細なバランスがわかるようになっていくものでもあって、なおかつ固定でもなく変化していくものでもあって、だからきっとこれからも続くと思います。終わりはなく解像度を上げていくことでどんどん軽くなる世界です。

上記の体験は、店員さんとの絡みはあったとしても、基本的に他者が絡んでいない体験でしたが、あの体感だけでも充分癒しになっていました。外側になんにも影響されない状態の本来の自分を知ること、体現することは癒やしです。

それを今度は他者と関わりながら自分のバランスを見つけていく作業が必要になります。他者との交流はもっと複雑なので、やっぱり核となる自分をたっぷり癒やし整えることは必要ですね。

ぜひ、自分なりの感覚をつかんでください😊

みなさんのそれぞれの道を応援しています✨


この記事が参加している募集