「怒れない自分がイヤ」の深層心理
みなさん、怒ってますか?
「怒りは悪い感情だから」
「自分のイライラは周囲に迷惑」
「感情的になってはいけない」
そんな良識的な判断で「怒る」ということをしていない人が多いのではないでしょうか。怒ったり、怒鳴ったり、叱ったりって、疲れますからね。正直、できれば避けたいです。
でも、そんな「怒り」の感情にこそ人生を好転させる原動力が秘めていると主張する方がいます。
週刊誌記者などを経て作家となり、現在では浄土真宗本願寺派僧侶、保護司、日本空手道「昇空館」館長でおられる向谷匡史(むかいだに・ただし)さんです。
今日はそんな向谷さんの考え方をお伝えするため、おもしろい本をご紹介します。『怒る一流 怒れない二流』という新書です。
「怒れないこと」に嫌気がさしていないか?
――あなたは、自分の性格のどこが嫌いですか?
あるセミナーで、そんな質問をしてみました。
「嫌いなとこなんかないですよ」
「ぜ〜んぶ好き」
という人もいらっしゃいましたが、これはもちろんジョーク。
どなたも、
「私は自分のこんな性格が嫌い」
という〝悩みのタネ〞が、たいてい一つや二つ――いえ、人によっては三つも四つもあるものです。
そんな中で、
(おや?)
と私が思ったのが、
「怒れない自分がイヤ」
という発言でした。
「怒らない」ということは、幸せな日々を送る「最高の生き方」とされています。
だから、
「いかにすれば怒らないですむか」
「いかにすれば怒りを鎮められるか」
といった書籍がたくさん出版され、ベストセラーにもなっています。
それなのに彼――二十代の若い男性は「怒れない自分がイヤ」だというのです。
そこで、私は彼に質問してみました。
――どうして怒れない自分がイヤなのかな?
「だって、頭にきて怒鳴りつけてやりたいのに、それができなくて黙ってしまうから」
そんな自分を嫌悪するというのです。
すると、どうでしょう。
彼の発言をきっかけに、
「俺もそうだな」
「そういえば私も」
といった声が相次いで起こったのです。
みなさんはどうでしょうか。
怒れない。そんな自分がイヤだと感じたことはありますか?
自分に対するごまかし
でも、この彼も、「俺も」「私も」と賛同した人たちも、実は「自己嫌悪の本質」を見落としています。それは「怒れない自分」がイヤなのではなく、
「自分をごまかす自分」
「自分に言い訳する自分」
というものに対して嫌気がさしているということなのです。
ちょっと理屈っぽくなったので、例をあげましょう。
若い編集者とレストランで打ち合わせをしていたときのことです。
すこし離れたテーブルで、幼稚園くらいの男児をつれた若夫婦が食事をしていました。若夫婦はワインを楽しんでいますが、早々に食べ終えた男児がヒマを持て店内をうろうろし始めました。
「あの夫婦、平気な顔していますね」
編集者がムッとした顔で私に言います。
「亭主に注意してやれよ。子供のしつけにもなる」
「そうですね……」
と返事しながらも一瞬の躊躇があって、
「でも、あのバカ夫婦に言っても通じないでしょう。余計なことして不愉快になるのもイヤですから」
と言ったのです。
これが本心であれば、彼に精神的ストレスはないでしょう。でも、「注意したくてもできない自分に対する言い訳」であったとしたらどうでしょう。注意できなかったことより、できなかった自分をごまかしていることがイヤになりませんか?
うーん・・・たしかにこういうシチュエーション、思い当たるところあります。だいたいは絡むのもめんどくさいので「まあ、いいか。ガマンしよう」となります。でも、それじゃダメなんでしょうか?
〝ダブル〞で自己嫌悪
あるいは、知人が居酒屋で、私に憤懣(ふんまん)をぶつけたことがあります。電車の優先席にヤンキー風の若者が大股を広げて座り、ケータイでペチャクチャ話をしていたのだそうです。
「張り倒してやればよかったのに」
私が言うと、
「そう思ったけど、あんな人間、相手にするだけ損だと思ってさ」
いまいましそうに言って、ビールを呷あおりました。
知人は怒鳴りつける勇気がなかったのです。でも、勇気のなさを認めるのはつらいことです。だから「相手にするだけ損」という言い訳を自分にすることによって、「勇気がない」から目をそらそうとするのです。
でも、自分にウソをついていることは、自分がいちばんよく知っています。知人がこの夜、悪酔いしたのは、きっとそのことがあったからでしょう。
「怒れない自分がイヤ」
ということの〝本質〞は、
「ごまかす自分がイヤ」
ということなのです。
もっと言えば、「怒れない自分」に嫌気がさし、さらに「自分をごまかす自分」に嫌気がさすという〝ダブル〞で自己嫌悪に苦しむことになるのです。
ダブルの自己嫌悪・・・。こりゃ、まずいですね。自己肯定感が激下がりしそうです。
怒れない人間は〝負け犬〞である
自分に嫌気がさせば、人生を積極的に生きていくことは難しくなります。職場で「怒れない」ということになると、精神的なダメージに加えて、出世や仕事の成果にまで関わってきます。
私が、某出版社の編集企画会議に参加したときのことです。
中堅編集者のA君が出した企画に対して、
「そんな本、誰が買うんだよ。売れるわけないだろう」
同僚のB君が批判しました。会議ですから批判は構わないとしても、「売れるわけないだろう」はちょっと乱暴です。
「何だ、その言い方は!」
とA君が怒って当然――と思っていたところが、
「ま、たしかにマニアックな企画かもしれないけど……」
気弱な笑みを浮かべて、企画を引っ込めてしまったのです。
会議が終わってA君と居酒屋へ流れた席で、
「何であのとき怒らなかったんだい」
「一時の感情で怒ると、人間関係がおかしくなりますから」
このときも気弱な笑みを浮かべて言ったのです。
A君は誠実で、編集者として優秀だと私は買っているのですが、残念ながら社内でも、著者たちの間でも信頼度はイマイチです。理由は、煮え切らないからです。ケンカしてでも企画を通すという気構えに欠けます。自分が提案した企画にケチをつけられても、怒ることもしない。「温厚」と言えばそのとおりですが、それだけに頼りなく思えてしまうのです。
やがてB君がデスクに出世し、A君は出版部から飛ばされ、閑職につくことになります。もし、A君が怒ることのできる人間であったなら、もっと熱い人間であったら、人事は変わっていたろうと残念に思ったものです。
吠えることも、噛みつくこともできず、曖昧(あいまい)に尻尾を振ってみせるだけのA君は、結局、「負け犬」になったのです。
たとえが編集者なだけに、骨身に沁みる話です・・・。
モチベーションと《怒り》
とはいえ、怒ることが好きな人間は、そうはいないものです。
怒らなくてすむなら、それに越したことはありません。お互いが相手のことを尊重し合い、助け合い、和気藹あい々あいと仕事ができれば、怒る人は一人もいないでしょう。
でも、現実はそうじゃありませんね。
理不尽な上司、ノーテンキな部下、身勝手な同僚、無理難題を押しつけるクライアント、裏切る友人……。人間関係という厄介なものをかかえて生きている以上、《怒り》は日常的についてまわります。
《怒り》を押し殺し、自分をごまかしながら生きるのもいいでしょうし、右の頬を打たれれば左の頬を差し出すのもいいと思います。「人が先、我は後」という生き方だってあります。それを私は否定しません。
しかし、利害が錯綜(さくそう)する社会において、
「私はこうしたい」
「こうありたい」
という強い意志を持って生きていくならば、必ずどこかで他人とぶつかります。障害物として前途に立ちはだかってきます。そして、「こうしたい」「こうありたい」という意志が強ければ強い人ほど、
「邪魔するな!」
と、立ちはだかる障害物に対して、怒りの感情が生まれてきます。
編集者のA君の例でいえば、
「どうしても、この企画を通したい」
というモチベーションが高かったならば、企画を批判したB君に対して怒り、反論したはずです。ところがA君は企画を通すことよりも、B君とぶつかることを恐れた――つまり、企画に対するモチベーションが低かったがゆえに、怒ることができなかったということになります。
あなたの周囲を見まわしてください。
広く世間に目を転じてみてください。
政治家、実業家、野球やサッカーの選手や監督、有能な上司、さらにヤクザからホスト、ホステスまで、成功している人は例外なく〝熱い人間〞のはずです。彼らは目的を遂げるために、夢を実現するために、立ちはだかる障害物に対して、
「そこをどけ!」
と、激しい《怒り》をもって蹴散らし、乗り越えて今日の成功を手にしているのです。
自分も「どうしてもこの企画を通したい」というときは、怒りモードになっているかもしれません笑。それは正しかったのか!よし。
いつの世も「草食が肉食に食われる」は不変
この世の中は弱肉強食です。
これが現実です。
しかも終身雇用制が崩壊し、グローバル経済となったいま、リストラと隣り合わせで生きていかざるを得なくなってきました。怒ることのできない「草食系」は、もはや絶滅種になってきたのです。
もし、あなたが「怒れない自分がイヤだ」と思っているなら、それは無意識に絶滅種となることに対する危機感のあらわれであると言っていいでしょう。
言い換えれば、そこに気づき、怒りをポジティブなエネルギーに変える必然性に気づいた人だけが、自分を変え、大きく飛躍するチャンスをつかんだことになるのです。
本書は、《怒り》をポジティブに活かす方法について、具体例をあげて解説しました。
烈火のごとく怒って見せることもあれば、理詰めで追い込むこともあります。《怒り》を笑顔の下に隠し、やんわりと首を絞めていく怒り方もありますし、二階に上げておいてハシゴを外すという奇計もあります。
成功者は、《怒り》をポジティブな「パワー」「モチベーション」「エネルギー」に変えることでのし上がっていくのです。
一読すれば、これまでネガティブに扱われてきた《怒り》こそ、実はエネルギーの源泉であることがおわかりになるものと確信する次第です。
どんどん怒れ!
そなたの怒りをポジティブなパワーに変えるのだ!
・・・というわけで『怒る一流 怒れない二流』のまえがきをご紹介しました。次回はもう少し具体的な内容をお伝えできればと思います。
(フォレスト出版編集部・寺崎翼)