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学問論:学問について(5) 学問における「真理」
「規範」「実践」と来て、今回はいよいよ「真理」についてです。
「真理」と「実践」
私のような門外漢がある学問領域にアクセスするときは、たいていの場合、その学問における「真理」に接します。
ダーウィンの進化論とか、源頼朝が鎌倉幕府を開いたとか、三権分立とは何かとか……、基本的な事柄については義務教育でも習いますし、大人になってからもいろいろなメディアを通して知る機会がたくさんあって、社会の中で「常識」となっていたりもします。
しかし、このような形で知ることができた「真理」について、自分は果たして十分に「理解した」といえるだろうか……。そう考えてみると、どうでしょう? なぜその真理が成り立つのか、その真理からどんなことが帰結されるか。そこまで訊ねられるとほとんどの場合、専門家じゃないんだからそんなことまではわかるわけがない、と答えを返すしかなさそうに思えます。
例えば、子供のころに理科が苦手だった人でも、太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っていることぐらいは知っています。つまり天動説ではなく地動説のほうが「真理」であるのは現代の私たちにとって「常識」です。
しかしなぜ地動説のほうが正しいのか――。そう訊かれて答えられる人は、単に地動説が正しいと知っているだけの人より少ないでしょう。私も、中学(高校?)で習ったニュートンの万有引力の法則を思い出して、太陽のほうが地球よりずっと大きいので引力もはるかに強く、直進しようとする地球を太陽が引っ張るので、力の合成によって地球は太陽の周りを回転する……、確かそのはず、だと思うけど……? ぐらいな感じです。
それでは万有引力は果たして実証されているのか――。これについては、私は知りませんでした。ネットで検索して調べたところ、キャヴェンディッシュという人が18世紀末に行った実験があって、質量がある物体どうしの間に引力が確かめられているんだそうです。
では、なぜ引力は存在するのか――。これも調べてみましたが、一般相対性理論や超ひも理論などといった積み上げはあるものの、まだはっきりと結論に至っているとはいえないようです。つまり引力が存在する原因についての真理はまだ生産されていません(製造中?)。質量ついても、20世紀の半ばを過ぎてヒッグス粒子なるものの存在が予測され、2011年にようやく存在が明らかになったそうですが、だからといって正体が明らかになっているわけではないらしいです。
門外漢が地動説について興味をもち、何としてでも理解してやろうと考えたとすれば、まず物理学の入門書を読むなどして「門」の中に「入」り、少しずつ読む本のレベルを上げていく必要があります。大学生向けの本まで行くと、専門用語やら数式やらグラフやらが頻繁に使われ、諸々の「専門知」、つまり単に「真理」についての知識だけでなく、物理学の「規範」や「実践」についての知識も求められます。ですから、これらの専門知をすべて身につけて実際に活用する、つまり「実践」するにはしかるべき専門教育を受けざるを得ません。
ここまで来ると、もう完全に物理学の内部の人であって、そこまで来てはじめて、引力について現在のところどういうことがわかっていてどういうことがわかっていないのか、といったことが理解できます。そして、もしも自分で引力の正体をつきとめてやろうと思うのであれば、つまり引力についての「真理」を生産しようとするのであれば、研究者になるしかありません。
このように、ある学問領域が「真理」を生産するには、専門的な「実践」が不可欠です。また、なぜそれが「真理」であるかの理解、いってみれば「真理」の生産プロセスを理解するには「実践」についての専門知が必要です。
もしも「真理」を植物に喩えるなら、「実践」は「真理」が根を張る地面であるといえるでしょう。「実践」という地面が十分な栄養と水分を供給することで「真理」は葉を茂らせ、花を咲かせ、実を生らせるわけです。
「真理」という言葉は、おそらくいろんなふうに定義ができるのだろうと思いますが、ここではある学問がその「実践」に根を張り、その「実践」と不可分な形で生産するものを「真理」と呼ぶことにします。
「真理」と「情報」
もっとも、「真理」が「「実践」と不可分」という言い方には、違和感を感じる方がいるかもしれません。例えば万有引力の法則は、ニュートンが発見するはるか昔から、ニュートンという人物の存在とは無関係に在ったはずです。
確かにそうなのですが、その一方で、物理学という学問が存在し、ニュートンが万有引力の法則を発見したということを物理学者たちがメディアを通して発信していなければ、私は万有引力の法則の存在について知りようがなかったのもまた確かです。私に限らず、世界中のすべての人がそうであるはずです。
しかし、だからといって私は、万有引力の法則がニュートンのでっち上げかもしれないとか、万有引力の法則なんて実は存在しないんじゃないかなどと思っているわけではありません。
そして確かに私は「質量のあるものどうしの間には引っ張り合う力が働く」ということをがニュートンによる発見やその発見のプロセスとは独立した事実であることを「知って」います。同じように「水は水素と酸素の化合物である」とか「中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した」とか「通貨の供給量が増えるとインフレになる」ということも、化学や歴史学や経済学の「実践」について詳しくないにも関わらず「知って」います。
なぜ「真理」は「実践」と不可分なはずなのに、「実践」と切り離してこれらのことを知っているかというと、生産プロセスと流通プロセスとでは「真理」の在り方が違うからです。つまり生産の場では「真理」は「実践」と不可分だったのが、流通の場では「実践」が切り離されているわけです。
このように、「実践」と切り離された「真理」を、ここでは「情報」と呼ぶことにします。先ほどの植物の喩えを使うならば、「情報」は「実践」に根を張らない「根無し草」だといえます。
「情報」は、基本的には言葉で書かれています。つまり記号の配列と組み合わせです。ということは、DNAと同じように、記号の入れ替わり、欠落、余計なものの追加、などといったエラーを起こしえます。ですから正しいはずの「情報」が本当に正しいのかについては注意深い検討が必要です。
しかし「情報」が正しいというのは元々の「真理」が正しいということであり、この「真理」が正しいかどうかは先に見たように専門知抜きには判断できません。もちろん論理的におかしいとか、自分が知っている限りのことと矛盾するなどと指摘はできるでしょうけど、その指摘に対して専門家たちから「だけどこれが正しいんです」と自信たっぷりにいわれれば、不承不承でも、専門レベルではこれが正しいんだ、と受け入れざるを得ません。
一方、専門家たちは「情報」の形で受け取ってもそれを「実践」と組み合わせた「真理」の形で理解するので「おかしくないか?」と疑問に思えば検証できます(少なくとも検証の仕方を知っています)。そして実際に検証してみて「真理」とされていたことが実は間違っていたとわかったとしても、その「真理」を産み出した「実践」までがすべて間違っていたということにはなりません。発想はいいところをついていたとか、基本線は正しかったのだけれど不十分な点があったとか、ちょっとしたミスが原因だったとかいうことも十分ありえます(2011年にニュートリノが光速より速く進むという、相対性理論を覆すような報告がありましたが、これは装置の接続不良が原因だったようです)。
しかし「情報」のままである限りは、正しいか間違っているかという尺度しかなく、門外漢たちはその判断の│術《すべ》を知りませんから、情報源である学者たちを信頼するか、さもなければ不信感を抱くかしかありません。学問がそういうものであるから、ロバート・マートンは「無私性」や「組織的懐疑主義」を含めた4つの規範を提案したのだと思いますが、先ほど見たように学者たちは食っていくため、自身の名を高めていいポストをにつけるような論文をせっせと書いている……。果たして、現代において学問は信頼に足るものなのでしょうか?
BSE(いわゆる「狂牛病」)問題や遺伝子組み換え作物の問題が取り沙汰された1990年代以降、ヨーロッパでは科学に対する「信頼の危機」が議論されたようですが、日本でも福島の原発事故やコロナ禍などを契機に専門家への不信がしばしばネットの世界を中心に表面化しています。こういう状況は「真理」の問題なのか、「情報」の問題なのか、両者の関係の問題なのか、多角的に考える必要があるだろうと思います。
「真理」と「教養」「思想」
とはいえ、門外漢たちはいつでも「情報」に対して受身にしかなれない、というわけではありません。さまざまな「情報」について考え、そこから人生の指針を導き出し、自身が生きていく中で出会う問題に対処するのに役立てようとする人もいるでしょう。
これは今まで使ってきた喩えでいえば、根無し草で浮遊している「情報」を個人の生活実践に着地させて根を下ろさせることだといえるでしょう。この生活実践に再び着地し根を下ろした「真理」を、ここでは「教養」と呼ぶことにします。
歴史学者の阿部謹也は『「教養」とは何か』という著書の中で、「教養」を個人の教養と集団の経に分け、後者を「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状態」と定義しています。つまり社会の中での自分の在り方を見定めることであって、をこれは「人類の成立以来の伝統的な生活態度」であるといっています。
一方、個人の教養は(こちらのほうが従来言われてきた教養を指すのですが)、ヨーロッパに都市が誕生して以来、職業の選択が可能になったごく一部の社会的階層の人たちが「「いかに生きるか」という問い」に答えを出そうと多くの書物を読んで知識を蓄えた状態と見なしています。
このような意味での教養を身につけるべきであるという意識、つまり教養主義は、日本でも明治の終わりぐらいから大学制度の整備に伴い、知的エリートである旧制高校や大学の学生たちの間に広まったといわれています。戦前なら『改造』『中央公論』、戦後の昭和期なら『世界』『アサヒジャーナル』をといった雑誌を毎号欠かさず読み、貧乏でも狭い下宿の部屋に本だけは積んである、というのがこの時代の学生の一般的なイメージだったように思います。
こういう歴史的な意味での教養は、私がここでいう「教養」とは異なるのですが、個人の実践に関わり、メディアを通じた「情報」の流通に支えられているという面では共通しています。
もっとも一般的にいわれる教養には、文学や芸術についての鑑識眼や生活の中で学んだ処世術なども含まれているように思いますが、ここでの「教養」はあくまで学問的な「真理」が元になっている知識に限ることとします。
「教養」は個人の生活実践に関わるものなので、その「教養」が具体的にどう利用されるかは人それぞれです。ときには専門家から見ておかしな理解の仕方をすることもあるでしょうけど、「創造的誤解」なんていうものもありますし、重要なのはあくまで自分自身が「いかに生きるか」であって、専門家たちにどういわれようが関係ない、と考えたって間違いとはいえません。
もっとも「教養」が、単に自分自身の生活実践ではなく、社会や国家、あるいは人類全体、この世界全体についての理想や理念を産み出すこともあります。この理想や理念を「思想」と呼ぶことにします。これは個人を超えたレベルのものですから、他人や集団と共有することができますし、政治運動や社会運動という形をとることもあります。一方で、「思想」が異なる者の間で対立が起こることもあります。
ここまで、学問が生産した「真理」が「情報」として流通し、門外漢たちに「教養」として受容され、それがときに「思想」を産み出す、という流れを書いてきました。
しかしこの流れは今の時代においてうまく行っているのでしょうか?
メディアの多様化で、確かに「真理」の「情報」化は非常に活発になっているかと思います。しかし「真理」の「教養」化、さらにはその先の「思想」化はどうでしょう?
半世紀以上前に書かれたものですが、哲学者のJ・ハーバマスは『イデオロギーとしての技術と科学』という本で、次のようにいっています。
教養人は行動の指針をあれこれと詮議できた。こうした教養は、世界の総合的な地平を視野におさめ、科学的経験を解釈したり、実践能力に、つまり実践の必然性を反省する意識に、転換したりできるという意味においてのみ、普遍的であった。ところでこんにち実証主義的な基準にしたがって科学的とされる経験の一般型は、このようなかたちで実践にうつしかえることができない。経験科学が可能にする処理能力は、啓蒙された行為の能力と混同されてはならない。だが、そうだとすると、科学は、行動の指針になるという課題を、そもそも免除されているのだろうか。それとも、科学的手段とともに変転する文明の枠組のなかで、大学の教養に関する問いが、こんにち、あらたな科学そのものの問題として提起されるのであろうか。
※太字は原文(訳文)では傍点。
私の文脈に合わせて単純化したいい方をすれば、エビデンスが正しさの基準として重視されるほど、「真理」は「教養」化しにくくなる、ということかと思います。
それでいいじゃないか、と思う方もいらっしゃるんでしょうけど、果たしてどうなんでしょう……?
以上、もっともらしいことを書いてきましたが、門外漢の立場から書いているためかなり乱暴に抽象化したところもあり、曖昧でわかりにくかったかもしれません。まだまだラフスケッチと呼ぶしかないのですが、学問については今後も「バカ学」と並行して考察を続け、もうちょっと実のあるものにしたいと思っています。
さて次回は、この学問論の応用編として一昨年ちょっと話題になったトピックについて考察し、それが済んだらいよいよ「バカ学」本論に戻りたいと思っています。
◎参考・引用文献
キャサリン・ホーリー、稲岡大志・杉本俊介監訳『信頼と不振の哲学入門』 岩波新書、2024年
阿部謹也『「教養」とは何か』 講談社現代新書、1997年
竹内洋『教養主義の没落』 中公新書、2003年
ユルゲン・ハーバマス、長谷川宏訳『イデオロギーとしての技術と科学』 平凡社ライブラリー、2000年
その他、多数のウェブサイトを参考にしました。