フードスコーレ不定期連載『食の未来仮説』#001 パンをこねるのは正気を保つため(書き手:荒井里沙)
この2、3ヶ月の間で社会がどんどん様変わりしている。私たちの生活も、この数ヶ月ですっかり変わった。先が見えない中見苦しくもがいたり、その中でも幸せを感じたりしている。毎日、律儀にごはんを食べながら。
日々たくさんのことを感じていても、人間って言うものは、喉元過ぎれば忘れてしまうものだ。だからこの期間に感じたとこと、考えたことをちゃんと記録しておこうと思う。
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3月から在宅勤務になって、家にいることがずっと多くなった。すると、自分の暮らしに否が応でも目を向けるようになるーー起きて、食べて、仕事して、寝る。その繰り返し。今まで一所懸命に取り組んでいた多くのことが削ぎ落とされると、日々の営みというのもは実に単純なものだと気がついた。
生きるという営み
マズローの欲求五段階でいうところの「安全欲求」が脅かされ始めると、土台にある「生理的欲求」に当たる、生きるための基本的な欲求が際立ってくる。すなわち、食欲、排泄欲、睡眠欲といったものだ。こうした欲求を満たすこと無しに、私たちは生きることはできない。逆に言えば、生きるという営み自体はそれほどにシンプルなのだ。
基本的な欲求のうちの一つに「食」がある。食べるという行為には、単純に食欲を満たすだけでなく、つくる喜びや一緒に食べる楽しさも含まれている。だから、私含めて多くの人が食べることに幸せを感じている。
買い物も控えるようにと言われるなかで、人と接触しないように警戒しながらスーパーで食材を買う。インターネットのレシピを見ながら、慣れない手つきで自炊をする。もしインフラまで止まってしまっていたら、食べるものがなくて困窮していたに違いない。そんな辛い思いをしないで済んだことを感謝しつつも、普段の自分の生活がいかに薄氷の上に成り立っているのかを、まざまざと知ることとなる。
不安に圧倒されないために
私は、自分一人では食材を調達することも、それを適切に調理することもできない。農家さんやクラフトマンは、こうした危機においてなんと強靭なことか。自給自足ができるって、すんごいことなんだな。
「生きる」営みの根っこを手放しながら、日々忙しくし人生を謳歌していた都会っ子の私は、大きな衝撃を受けた。私は一所懸命生きていたようで、実は生きることの根本と向き合っていなかったんじゃないか。だって、一人じゃ何もできないじゃないか。そう考え始めると、漠然とした不安が心にもやをかけていった。
そんな心許なさをやさしく解消してくれたのは、自分の手を動かすということだった。食べるために、自分で料理をつくる。オンラインでプロの料理人の方に料理を教えてもらいながら一緒に食卓を囲んだり(#オンラインキッチン)、シェアハウスの住人と一緒にお菓子を作ったり、こんな状況でなかったらおよそしなかったであろうことを嬉々としてするようになった。下手でも、自分の手で何か生み出せるのがとても嬉しかった。美味しくできた時には、諸手を挙げて喜んだ。自分の手で作れてしかも美味しい、こんな幸せなことはあるだろうか。
そのなかでも、私にとってパンづくりは特別なものだ。私はパンが大好きで、出かけた先でおいしそうなパン屋さんを見つけてはよく買い食いをしていた。でも、パンを自分で焼こうなんて夢にも思わなかった。シェアハウスの住人がパン生地をこねているのを見て、なるほどパンは家で作れるのかと固定概念が覆されたのを覚えている。そして、その姿を間近で拝んで思わず叫んだ。
「パン生地、かわいい!!」
生きるための処方箋としてのパンづくり
その物体は、つるっとまるっとしていて、触ればあなたの手に優しく吸い付いてくる。それは哺乳類の赤ちゃんのお腹みたいな感じでもあるし、雪見だいふくみたいな感じでもある。えも言われぬ愛おしさに、なんだか泣けてくる。パン生地に触れてパンを焼く。それがステイホーム期間中の一番のセラピーになっていた。自分にも何か作れるという小さな実感が積み重なるにつれて、温かい安心感に包まれていった。この時、「生きる」ことがほんの少し自分の方に手繰り寄せられた感じがしたのだ。
この数ヶ月、スーパーで小麦粉やイーストが品切れになっているという。人気になるのもわかる。パンづくり、楽しいもんね。みんなこの幸せを享受しているのかと思うと、ほっこりあったかい気持ちになる。だからこそ、独り占めしたりしないで分け合えたらいいな。
食べることと生きることは切り離せない
ステイホーム期間を経て、「食」は人にとって欠かすことのできない根源的なものだと再確認した。そしてその食というものは自然環境と人間の知恵の賜物だということも。環境のバランスが崩れたり食物が育たなければ、私たちは食っていけない、すなわち生きていけない。
幸運にも飢えに苦しむことはなかったけれど、食べ物や食べることの大切さをとても切実に感じた。きっと、そう感じたのは私だけでないはずだ。そんな共通の経験がある今だからこそ、「食」の来歴に思いを馳せて、より良い暮らし方を探していくことができる気がする。
時間をかけて何かを作るということは一つのヒントだ。目が回るほど忙しい現代において編み出された「時短」や「簡単」なテクニックも素晴らしいけど、じっくりと「食」、ひいては「生きること」にまじまじと向き合ってみるのは悪いことじゃない。でも、きっと忙しくなるとこの感覚をつい忘れてしまう。だから今のうちに生活に組み込んだり、時間のある日だけでもしっかりその大切さには向き合いたい。同じ不安や手作りの楽しみを共有したからこそ、これからの「食」の価値は、もっと重みがましていくだろう。そうあるべきだと思う。
さらには、「食」の根源には常に自然環境と人間の営みがあるところまで思いがいたると良い。ふだん自分の命について考えないで済むような環境にいる私たちも、そうした大いなるものに支えられていることに変わりはない。環境と人間の知恵で生かされているということが体感できれば、食べ物や食べ方の選択の仕方も変わってくるはずだ。誰がどんな思いで作ったものか、誰と一緒に食べるか、どれだけ時間の余裕をもって食卓を囲むか。いつだってそこにある生に近い真実を、いつも手放さないでこれからも暮らせるといい。そんな、祈りに近い未来予想。
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『食の未来仮説』は、さまざまなシーンで活躍されている方たちが、いま食について思うことを寄稿していく、不定期連載のマガジンです。
今回の書き手_
荒井 里沙/Risa Arai
1992年東京生まれ。企業の廃棄物処理コンサルタントを経て、等身大でできる持続可能な社会のためのアクションを発信中。「食」のストーリーを知ること、伝えること、そして食べることに目がない。530week所属。