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精いっぱいやればいい~教員のプロ意識

 こんにちは、ラマです。
 
 教職員ってとても素敵な仕事ですし、やりがいもあります。ではなぜ私が現場で苦しんでいたのか、自分なりに考察してみました。


私の「やりがい」

 教職員は子どもたちの成長を見守り、時に応じて助ける仕事だと思っています。その核となるのは授業です。当然私も授業づくりはがんばってきました。学校でする時間はないので主に家での仕事でした。

 実際に授業をすることで、「この子にはこのやり方があっているな」とか、「この手順だとうまくいかなかったな」とフィードバックを得て次の授業に取り入れていきます。

 子どもの「わかった」が励みになって、「次の授業もがんばろう」という気持ちになれるのが教員のやりがいだと思って仕事を続けてきました。
 そこには教員としてののプロ意識というのはありますし、プロである以上よい授業(商品)を提供しようと日々迷い、悩みながら授業づくり(商品開発)に勤しんできました。

 「わかる授業」が子どもとの信頼関係につながり、生活指導も充実したものになりました。
 今までたくさんの子どもと出会い、たくさんの「わかった」「できた」をもらいました。そしてそうした子どもたちが日々成長していく姿にやりがいを感じていました。

 もう20年ほど前になりますが、私は営業職を辞め、教職の道を選び「よかった」と感じました。

完璧思考の罠

 私にとっては「プロ意識」=「やりがい」だったと思います。

 ではなぜ私が心を病んで休職したのか。それは前記事『3回の休職』で書いたハラスメントの問題もありましたが、今改めて思うのは「満足いく授業を提供できなくなったから」かな、と思います。

 授業づくりに完璧さを求めてしまうと、いくら時間があっても足りません。自覚はしていなかったのですが、知らず知らずのうちに自分も完璧主義思考の罠に陥っていたのかもしれません。

 一度大きな病を経験し体がついてこなくなって、以前できていたことができなくなってきたのもあるのかな、と振り返って思います。

「下手な授業」でもいいじゃない

 「下手な授業」「上手な授業」は当然あります。でもそれは「その先生の中での精いっぱい」であって、「下手な授業」なら子どもや同僚からのフィードバックを得て改善していけばいいだけの話です。
 そうやって教師としての力量を上げていくのが本筋なのに、それを認めようとしない人はどの職場にもいます(経験談ですが)。その人たちの口癖は「給料もらっているんだから」です。私はこれが一番だめだと思っています。
 私はその人の「精いっぱい」の対価が給料だと思っています。人材を育てることもしないで言うべきことではないと感じます。
 

 私から特に若い教員の方に言えることは「授業は数をこなしてなんぼ」ということです。失敗からの気づきは間違いなく教師としての力量を上げてくれます。絶対見てくれている人はいます。その人たちの方だけを向いて「プロ」としての仕事をすればよいと思います。

おわりに

 いろいろ書き連ねてきましたが、教員は商品企画(授業研究)と営業(授業)を一人でやっているスーパーマンですね。自分で言うのもなんですが…
 そのほかにも生活指導や分掌業務、中学高校であれば部活など仕事が多岐にわたっていることにいまさら気づきました。そりゃミスもありますよね。だからミスの表面的なことだけを見て言いたいこと言って終わる人の相手はしなくていいことにも気づきました。

 自分の価値づけをしっかりしてくれる人のほうだけ向いて仕事をしていく。そんなことに気づかされた今日なのでありました。

それでは!

  

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