何か行動するのに理由付けが必要なのは、少し濁っているのかもしれないと思った話。
今日は、こんなエピソードをご紹介したい。
旅先で出逢ったフリーフード(無料の料理)を提供している20代のシェフのはなし。
そのシェフは「もし、ぼくの食事で幸せを感じてもらえたら、その幸せを誰かに循環させてほしい」といって活動をしておられた。
「お昼ごはんで使うはずだったお金を、誰か大切な人のために使ってもらえると嬉しい」と言うのだ。
まるで映画ペイフォワードのリアル版。
将来的には世界中で活動をして、貧困やフードロス問題なども解決したいと語っておられた。
さらに聴いてみると、自分の貯金で食材を買ったり、各地で寝泊りしたり、自腹で活動を続けているとの事。
よほどの想いがあるのだろうと思い「そのエネルギーの源は何ですか?」と質問すると、こう返ってきた。
『う~ん。そうですね。「食べたいから、食べる」と同じで、やりたいからやっているという感じです。そんな大それた理由はないんですよねー』
。。。
絶句である。
今までの自分の価値観では、何かをパワフルに行動するには、それ相応の事情というか理由があるものだと思っていたが、どうやら必ずしもそうではないようだ。
思いだしてみると、こんなことがあった。
ある日、保育園から帰ってきた6歳の子供が、貧しい国の人のためにと募金箱をつくり、そこに自分のお金を入れていた。
ぼくは言葉を失って、その光景を見てジーンと感動した。
6歳の子供の行動にしても、このフリーシェフの行動にしても共通しているのは「当たり前のようにやっている」という点。
「誰かのために、何かをしてあげたい」と思うのは、とても自然な感覚で、生まれながらに人に備わっている本能なのかもしれない。
逆に言うと、何かをやるのに理由付けが必要なのは、ちょっと濁っているのかも。とも思った。
中島美嘉さんの「雪の華」という歌の中で、こんな歌詞がある。
”誰かのためになにかをしたいと思えるのが
愛ということを知った”
まさに、コレだと思った。「愛」
なにも説明をする必要がなく、もっともらしい理由もなく、ただ「そうしたい」というものが愛なのだと思う。
親が子供のことを無条件で愛するのと同じで、困っている人に何かしてあげたいと思うのは、ごく自然な感覚なんだと思う。
大人になるにつれて、「良い人ぶってると思われそう」とか「恥ずかしい」などの思考がはいって優しさを止めてしまう。心の声が頭によって止められてしまう。
「恥ずかしい」の先には、「恥ずかしい」しかない。それ以上のものは何もなく、ましてや「死」が待っているわけでもない。
なのに、恥ずかしいという気持ちを味わいたくないという恐れから「誰かに優しくしたい」という気持ちを止めてしまうのはモッタイナイ。
「恥ずかしい」という感情は、幸せの循環をストップしてまで優先すべきものだろうか?
そう思って以来、ぼくは電車やバスで年配の方が乗ってこられた際は、勇気を出して声をかけて席を譲るようにしている。
これって、本当に毎回ドキドキするのだが、それによって世界に少しでも幸せが循環する可能性があるのならば安いもの。
もしも「年寄りあつかいするな!」と怒られるようなことがあれば、「ごめんなさい」と言うつもりだ。
結果ではない。
自分が自分の事を好きでいられる選択をできたか。
これが、ぼくが大切に意識している習慣の一つ。
どんな結果であろうが、「こころの声を聴いて行動にうつせた自分」を褒めてあげる。よくやったぞ勇者よ。
「結果」よりも「選択」
偽善者と言われてもいいじゃないか。
キレイごとと言われてもいいじゃないか。
この人生は一度きりだ。
生きられる時間は有限だ。
明日も生きているという幻想を捨てて、
自分にとって大切なものを、今日から大切にしよう。
貴重な時間(=命)をつかって読んで頂きありがとうございました!
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