見出し画像

御厨八景集の話。

  • ※このお話は、既に出版されている本の、すご〜くダイジェスト版だったり、状況証拠からお話しできることをお送りしております。正しくは本を読みましょう。

  • http://k-bun.co.jp/con_historybooks_13.html

  • ただし、まだうまくまとまっていませんが一部は新発表かなあと思いますよ。

むかしむかし、江戸時代の御殿場に、芭蕉大好きなオジサマがおったそうな。

御殿場や小山にいくつかの芭蕉の句碑があります。3つも石碑をたてちゃった素敵なオジサマです。

一つは、ふじあざみライン

芭蕉句碑小山須走
https://maps.app.goo.gl/4tCHxKZmmDyNUvuXA?g_st=ic

一つは、足柄峠手前の金太郎富士見ライン途中で、古道の看板が出ている付近

芭蕉句碑小山竹之下六地蔵傍
https://maps.app.goo.gl/sR5eWTdfdPAgXwpe8?g_st=ic

もう一つは現在は個人宅に保管されていると伺っておりますので、ご紹介はできませんが、かつては永原大神宮の近くにあったとか。

この3つの石碑を建てた人物が、江戸時代に御厨八景集を編纂し、永原に方丈記よろしく俳句三昧の日々のための隠居屋を建て、転居の際に牛に負わせた荷物が一駄に足りなかったことから「牛負庵 牛翁」を名乗った夷屋藤吉です。

御厨八景集

詳しくはこちらの巻末付録、または御殿場市史4にて。
http://k-bun.co.jp/con_historybooks_13.html

江戸時代に盛んに作られた八景、十景などの一つです。
八景の説明については八景専門家の方または簡易にはウィキペディアなどに任せることにします(ウィキペディアの静岡県の項に御厨八景がありませんが)が、御厨八景は瀟湘八景(しょうしょう はっけい)になぞらえて作られていると考えられます。

さて、これら掲載箇所の風景はどこから見たものでしょうか。
かつて私は御厨八景を追いかけてみたことがあります。
以下、御殿場市史の掲載の八景集と、Googlemapから追ってみましょう。

※地図をもとに見学をされる場合は、見学地の所有者様及び近隣の方々にご迷惑にならぬよう、また、事故にならぬよう道交法を遵守し、また、周辺の交通状況に注意いただきますようお願いします。


足柄暮雪 
現在の足柄駅周辺から眺めた風景。芭蕉句碑がみえる。


足柄暮雪に描かれた芭蕉句碑


公時山秋月 
絵図と同じ形で山を観察できる場所は不明。

金時山を望む


八重山霞 
稲葉正道の『たかね日記』には「矢倉が嶽のうしろにつづける山なん八重山といふ」とあり。なお、足柄の『正福寺』は山号がかつて「八重山」でした。

籠坂時雨 
現在のふじあざみライン。絵の中には牛翁が建てた芭蕉の句碑がみえる。

宝持院晩鐘  
通称「ほうじん」。御殿場に古くからあるお寺。

竹下橋夕照 
現在の足柄駅の近くにかかる橋。現在は千束橋と呼ばれている。 

長原夜雨 
牛翁庵の周辺。絵の中には牛翁が建てた芭蕉の句碑がみえる(句碑は現在個人宅内)。
この付近に御殿場青年会議所さんが建てた「永原夜雨の碑」があります。


永原夜雨の碑


裾野晴嵐
 
大野原か。

牛負庵 
牛翁が方丈記に準え作った庵。永原大神宮周辺と伝わる。
池には逆さ富士が映ったと、八景集冒頭に記述されている。



※地図をもとに見学をされる場合は、見学地の所有者様及び近隣の方々にご迷惑にならぬよう、また、事故にならぬよう道交法を遵守し、また、周辺の交通状況に注意いただきますようお願いします。


御厨八景集は、御厨集とも呼ばれ、絵を描く不能庵なる人物は庚申寺の方であったと伝わっています。
この他、須山の神職であった渡辺隼ら親子、駒門の名主である小沢清海、御殿場に在住した旧三河藩士の白駒(宮崎三太夫)、報徳の熱心な推進者であり教育者である「おさんの寝言」の三井内蔵助、北海道までの紀行が記された「みちのく日記」の上小林の蚊牛(ぶんぎゅう)らが、また二宮金次郎の弟子にあたる相州曽比村名主の経広らの名前が確認できます。
つまり、参加している人物らは地域の知識層、教育層を中心としていました。また、広く御厨以外からも参加していたようです。


謎の人物だった牛負庵牛翁

御殿場市史4には御厨八景の掲載があります。昭和53(1978)年、発刊の段階では謎の人物で「生没年不詳」と記されています。
その後の調査により、牛負庵牛翁の正体が徐々にわかってきました。

天明5年~万延元年(1785~1860)。本名、藤方藤吉。号、雪窓人芙山。芭蕉と富士を愛した俳人で御殿場の人。
職業上、江戸から関西方面までその行動範囲は広く、服部嵐雪を祖とする「雪中庵に学び、句会席「雪窓亭」を設け、多くの俳人たちと交流。
報徳で知られる竈新田の小林平兵衛(木二)とは特に懇意。御殿場の山中屋兵右衛門らと並び、御殿場の報徳仕法の立役者でした。
サロンに集う仲間たちと句会席を催し、評論を加えた『月並句合』を頒布。
(文化財のしおり33集より抜粋編集)

芭蕉大好きすぎじゃない?牛翁

ところで石碑のある個所、お気づきでしょうか。
牛翁は、永原に庵を作りました。そして、元の住まいは、御殿場でした。
石碑のうち2か所は、山の中…手間がかかる、遠い場所にわざわざ建てています。

わざわざ手間がかかるところに建ててる…芭蕉愛かな?

それでもまだ、ふじあざみラインの方は、わかるんですよ。
藤吉は穀物商という職業柄、日乞いに須走の大日堂に通っていたことがわかっています。須走くらいは行動範囲な気がします。しかも須走は街場です。須走浅間神社に見られるように富士講の人々が石を奉納していますから、ルートも確保できることでしょう。
しかし、足柄の方は、位置が高い。その先は足柄城という山城なので、地形的にも切り立っていて複雑です。


めんどくさいところに建ててる…やっぱり愛かな?


大変な場所に敢えて立てた芭蕉の碑。
そして、広範囲に配布されるであろう御厨集の絵に敢えて位置を入れた芭蕉の石碑。
冒頭文でわざわざ「芭蕉の石碑建てたから!」とアピール。


大変な思いして、絵にも入れて、アピールして…やっぱり愛な気がする!


この二か所、地図を見るとわかるのですが、相州、甲州に向かう境地に建てられています。
ラスト1個。自分の庵付近の永原。これも西の果て、境地なのでしょうか。
「往来のついでに見ていってね!」という意図が見え隠れする気がします。
ただし、端から端まで歩かせる、ということは、一朝一夕で見学に行けないということにもなります。宿場のある足柄(竹之下)、須走、御殿場でそれぞれ一泊くらいさせることを目的としているかもしれません。
実際、私が車で周った時には2~3か所で半日かかる有様で、1日で周り切れなかった記憶があります。
本来の目的はもしかしたら観光戦略なのではないかと考えています。

牛翁の富士道者誘致・観光戦略か?

御殿場への富士道者の誘導は、小田原藩に訴え出て古沢と争いになっています。
最終的に小田原藩からは御殿場がお墨付きをもらうわけですが、庚申縁年 である寛政12(1800)年は牛翁15歳の頃で、次の庚申縁年で藤吉が亡くなる年まで、いくつかの争論が古沢相手に起こっています。
このあたりの争論を見ていると、江戸方面からやってくる道者たちは御殿場から須走、竹之下から須走へ通り抜けて富士登山をしていたようです。
つまり、その2か所の石碑は意図的に、滞在させるために置かれたのではないか、と考えられるのです。
須走、竹之下はこれで理屈がつきますが、問題は永原です。
牛翁の目的が道者らの宿場への滞在期間延期だとすれば、御殿場に石碑をおきたかったのではないか、と考えましたが、御殿場自体においてしまうと御殿場への逗留時間が延びるわけではなくなります。
一つの答えとして、矢倉沢往還が挙げられます。
八重山霞、金時山にも矢倉沢往還が関係してくるのです。
御殿場を抜け、矢倉沢往還を三島方面に進んだ先の境が、永原なのではないでしょうか。
その向こうは竈で八ケ郷との境地であると考えれば、永原は納得がいきます。
竹之下を抜け、須走に向かい、登山の後に御殿場を通り、矢倉沢往還を抜けて三島・富士へ。
富士への道は、二岡神社神主の内海信尹(のぶただ)の「二岡詣で」にお任せして。また、御殿場の宝持院でも二岡詣でと接続します。
内海信尹は牛翁と同時代の人です。なお、余談ですが二岡神社には牛翁奉納の俳句扁額があったそうです。

・・・二人の意図が見え隠れする気がします。

こう考えると、御厨八景集は観光戦略として作られた。と言っても過言ではない気がしてきました。


さて、石碑を観光戦略で置くとして、じゃあなんで芭蕉なのか。と思うわけです。

だって鴨長明も超好きだよね。

そもそも、方丈記よろしく庵立てちゃっています。御厨八景集冒頭ももちろん方丈記に準えているのではないかと考えられます。
牛翁の好きピ♡は芭蕉onlyではないのです。
長明でも、和歌でもいいじゃん…?って思いませんか?
庵まで建てていますよ…?十分すぎるほどファンじゃない…長明の。
その割には石碑は芭蕉なんですよね。

うん、やっぱり、

牛翁は芭蕉大好きすぎて石碑を建てた。

としか、私には…思えないのです。


おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?