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#3 この道を行く必要なんてない

人生はよく、「道」と形容される。人生は選択の連続であり、その選択は「交差点」と形容される。これが僕や私の道。これが生きる道。選択して進んできた人生、あるいはこれから進もうとしている人生は、そのように形容されてきた。

僕も人生を道として形容する言葉が好きだし、人生を道になぞった映画やドラマのシーンにも心を動かされてきた。そんな自分もまた、これまで進んできた人生。という名の時の集合体であり建築物を、「道」として考えてきた。最も収まりのよい形容詞だった。

しかしどうだろう。この10年で、人生は道という形容詞から徐々に乖離を選択しはじめてきた。これは僕の時間軸での感覚だから、世の中の一線ではもっと前から進んできたのだろう。おそらくそれは、人類初の月面着陸から、さらにはその構想がスタートした時から始まっていると思う。

つまり、もはや人生は道ではないということ。言い換えれば、人生を道と形容することは、これからの人生を縛り付ける呪縛的呪文になるということ。

もはや人生は道ではない。なぜなら人類にとって地面を主体とした世界は、もはや終焉を迎え始めたから。全ての土地は開拓し尽くされ、線が引かれているこの地上世界は、もはや窮屈そのもの。開拓する道など皆無になったこの時代において、もはや人生を道と形容することは過去の言葉になったと言える。

率直な話し、自分が人生を道と形容する行為を捨ててから、非常に物事がスムーズに進みはじめた。陽はまたのぼりくりかえすように、世の中の目的も次の次元で繰り返される。再び戻ってきた太陽は同じ太陽でも、正確には異なる。沈んでいる時間分、僕たちが見えない時間を経過した新しい太陽だから。時代もまた同じ。先人が土地を開拓したように、道を築いたように。無数に形成された道から選択する人生だったように。再び、道なき道をゆく時代がやってきた。そう考えると、非常に物事が整理されるのである。

思えば、学歴社会に年功序列。地上を制覇した世の中は、レールという精神的な道をつくり、管理しようとしてきたわけだし、その管理にあやかることで確かな恩恵もあった時代はあった。しかし生命がいくら縛られようと、常にそこから逃れる術を開発するように、人間もまた等しくその本能を行使する。

イノベーション。創造的破壊。まさに今の時代である。
1つの道に制限する必要性もなければ、道など進む必要もない。なぜなら、いつ崩壊してもおかしくない道など、進むべき道ではないのだから。点と点を結ぶ道という概念は過去の方法であると。天体が無数の星という点からなるように、人生には定点などない。それを結ぶ線もない。

だから僕はよく周囲の人間に、良い意味での警告を発している。覚悟した方がいい。今まで保証されてきた道は、必ず誰かによって破壊される。それでもその道とともに朽ち果てる人生が良いのか。それとも、その道を捨てる勇気がるのか。と。人生は道であるべきではない。人生そのものが、コンストラクターであるべきだと。

それは先人たちが経験したように、非常に困難な道であり、時には自らの生命も脅かす道。しかし先人たちよりも、そのリスクを極力軽減させる科学の進化や経験談という知識を僕たちは持っている。先人たちのレガシーとは、建設された道ではなく、それらでしょうと。

世の中でDIYが流行したのも、こういった背景からだと勝手に思っている。(笑)簡単に言ってしまえば、時代は誰かが作った建造物に住まうことに飽きてしまったのだ。そしてその飽きとは、非常に優れた機能であることも、付け加えておく。

これから、どんどんと宇宙が開発されていく。宇宙に住む世界は遅かれ早かれ、必ずやってくる。夢の世界ではない。だってすでに実際にヒトが住んでいるのだから。そんな世界には、道など存在しない。地面や重力という概念がないのだから。

ただ「道の時代」は、きっと再訪する。例えば重力のない宇宙開発が進めば、今度は惑星開発に行きつく。きっと地球と同じように重力があるような場所が選ばれるだろう。そうなれば、まさに先人が行った土地の開発が再訪する。再び人生は道に形容されるでしょう。

けれど今の時代は、「道を捨てる時代」。つまりは、「疑問の時代」
だからもし、自分という人間が何者なのか分からなかったり、いくら探しても見つからず怒りや悲しみに苛まれていたり、他者や既成概念に対して苦痛と疑問を感じてやまず不快感なのであれば、それは正しく健全的な感覚だと思う。だから安心して欲しい。

自分は、娘の誕生によって、人生の道から脱出することを決意できた。
そこに誕生した命には、まるで夜空を見上げた時に感じるものと同じものを感じたからです。

そう、それは、「可能性は常に無限である」ということでした。

この道。あの道。その道。道を行く必要なんてない。
僕たちの命は生まれながらに終わりを背負って始まる。それは呪縛ではない。無限にある可能性に、区切りをつけてくれるギフトなんだと思う。

だから生きることには、無限にある可能性を行使する義務があると思う。




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