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視点

人生は、視点という宝物を得る旅だと思うようになれたのは、最近のこと。

視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。
すべてを得る人もいれば、一部しか得られない人もいる。
生命とは存在の起源からして、不平等という機能性を持ち合わせてる。僕は幸いにもそれら五感のすべての恩恵を得られる身体を授かった。これは何にも代え難い恩でもある。

しかしどうだろう、一部の感覚が欠如した人とお会いしたり、なにか行動を共にしてみれば、不平等はむしろ恩恵にすらなってしまうことに気付く。目が見えなければ聴覚が発達する、聞くことや見ることが出来なければ触覚が発達する。総合力で劣るどころか、なにかが足りないことによって生まれたパワーは五感満足な自分を上回る境地にたどり着く人々がいた。

世の中は不平等だからこそ、限りなく平等である。彼らから僕は矛盾という名の視点を拝受したわけで。命はすべてにおいて平等であると、思い知らされることとなった。

足りないことに対する怒り。知らないことに対する、恐怖。それらは拒絶するべきものではなく、むしろ受け入れて活用すべき宝物だと。

すべての人生は、より多くの視点を探す宝探しである。掴めば掴むほどに、視点にも希少度があることに気づいたのもまた最近のこと。希少度の高い視点を得た時の快感は、言葉では表現できない。そしてそんな快感を得れば得るほどに、もっと希少度の高い視点を欲するようになる。

なぜ人には、限りなき欲望という機能が備わっているのか。それもまたこれら概念の背景であって、人生に与えられた宝具である。

さらに理性。これは欲望を抑制するためのものではない。より強大な欲望を操り、より強力に欲望から旨味を抽出させるための二次的機能である。

人生は満足するためにあるのではない。満足するその一瞬一瞬のためだけにある。満足が継続することはなく、満足かのように立ち振舞続ければ人は壊れていくようにできている。安定した満足などこの地球上どこにも存在はしないのだから。

だからこそ改めて僕は子を持つ親として言いたい。欲望を受け入れ、完璧に行使できた時が、大人になった時だと。欲望にこそ答えがある。

人が感覚を与えられて生まれ落ちると、子はよく泣き叫ぶ。純粋な怒りを放出もする。これは視点がない状態で、欲望が暴走している状態だから。

そして一瞬一瞬の時すべてから、膨大な情報を吸収していき、人は視点を得て安定という概念を知ることとなる。そして次に、安定は不安定とつながっていることも。大海が常に波打つように。それが不変であるように。人生もまた然り。

人生そのものが大海なのだから、人生に踏みとどまるという選択肢はそもそもない。より多くの視点を求めて、実装するためにある。

その旅は、ほとんどの場面において苦痛を得ることになる。しかし途方もない痛みや悲しみもまた、新たな視点の獲得である。視点として獲得すれば、それもまた宝具となり、多大な快感と喜びを得ることとなる。

優れた社会とは、優れたより多くの視点が支え合うことで成り立つ。

視点という飽くなき欲望を求めることは傲慢ではない。それは結果として世のため人のためとなるからだ。だから豪傑であれと。欲望の赴くままに歩を進め、それを理性と共に掴んでいけばいい。

五感という探知機。一部が欠損すれば、残る感覚を強化すればいい。心が死にかけたのなら、癒やす力を高めればいい。

授かった身体が滅びるまで、朽ち果てるまで、求め続ければいい。

素晴らしいじゃないか。すべてを与えられ、全てを終わらせてくれることが約束された人生なのだから。

より多くの視点を持ち、より多くの喜びを快感を、膨大な苦痛や悲劇の屍の上に成り立たせ、それでも求め続ける。獲得し続ける。豪傑に、貪欲に。得れば得るほど、社会は良くなる。人生は昇華し続ける。

そんな人生の総量が増えていけば、きっとこの世界は理想郷になると思う。

自らの欲望を行使するために戦い続けていい。五感で得たことすべてを受け入れていい。生まれながらにして得たすべての事に疑問を持つ必要はない。それはギフトなのだから。ただ手にとればいい。

何が正しいかは、自分で決めればいい。何を信じるか、どんな道を進むかも自分で決めればいい。

失敗しようが、朽ち果てようが、後悔しなければ、ただそれだけでいいのだ。

そうする事が、生まれながらにして授かったギフトに対する最大限の恩返しであり、人生を他者を社会をこの世界を愛する最上の手段である。





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