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わたしは誰でもないひと

 I am nobody - who are you?
   Are you - nobody too?
  (わたしは誰でもないひと、あなたは誰?
あなたも 誰でもないひと?) 

 エミリー・ディキンソンの詩である。この詩を曲にしたものを見つけてから、よく三才の息子の傍で口ずさんでいる。覚えさせてみたいけど、彼は英語が分からないから、覚えるとしたら最近よく流しているラップ版の百人一首の方だろう。別に教育としてではなくて、わたしが覚えたいから好きで聞いてるだけ。

 ちょっとショックなことがあった。わたしはYouTubeはもっぱら「限界ニュータウン探訪」と「オオカミ少佐の自衛隊解説」と、あとは「万訪おじさんの集落町並み探訪」ばかり見ている。なんともおじさん臭いチョイスである。

 二年前になるだろうか。亡くなった父の戸籍を取りに千葉に行ったとき、ついでに成田の航空博物館を訪れた。乗り物好きの息子が喜ぶかと思ったのだが、彼はぽかんとしていた。その大きな博物館の隣に、ひっそりと小さな記念館があった。ゲバ棒と火炎瓶と空港反対の旗が展示されたそこは、三里塚闘争の記念館であった。

 いつも使っていた成田空港の、かすかにしか知らなかった血まみれの歴史をまざまざと見せつけられて、帰ってから夢中で北総の歴史を調べた。そのとき「限界ニュータウン探訪」のブログを見つけた。バブル期の乱開発についての大変良質なブログである。いつも見慣れている風景の謎をとく鍵を与えられたようだった。

 時は流れてそのブログは大変影響力のあるYouTubeチャンネルに成長した。限界ニュータウンという言葉も、様々な媒体で見かけるようになった。運営されているのはほんとうに誠実な方で、どうかその方の労苦が報われますように、道が開けますように、と祈っている。

 「わたしは誰でもないひと」とエミリー・ディキンソンは言いきった。このインターネット時代に、誰もが果てしない承認欲求を満たそうとしている時代に、19世紀に生きたエミリーの言葉はなんて真理をついているのだろう。このみんなが誰かになりたい時代に。いきなり注目され「誰か」に押し上げられた、限界ニュータウンの方の吐露する苦悩を読んだときに、この詩を思い出した。

 わたしは誰でもないひと。誰にも気付かれないような場所で、イエス・キリストについて自由に綴っている。わたしの通う教会でもYouTubeで礼拝を配信しているが、いつ見ても再生回数は20回かそこら。だけれども自由に、聖霊が語ることを聖書のままに語っている。

 承認欲求から解き放たれた話を、このあいだ書いた。あのあとわたしは肩から力が抜けたように自由になり、神さまをもっと近く感じるようになった。「ひとからどう思われるか」という偶像を捨て去っただけで、わたしの意識にいつもキリストがいて、祈ることも委ねることも、ずっと容易くなったように感じている。

 この世にとって、わたしは誰でもないひと。すべてをキリストに捧げた、頭のおかしいひと。「わたしはキリストのために愚か者になった」と使徒パウロは言ったっけ。けれどキリストにとってはー。

 わたしが抱く唯一の希望は、その一点にだけある。他のすべてに絶望するようなとき、美味しい料理も、旅行の計画も、欲しい洋服も、未来も、なんにもあと一日生きていくためのモチベーションにならないとき。さっさと取り去ってくださればいいのに、と神さまに呟くようなとき。わたしは本物の希望について悟った。希望がわたしをこの生に繋いでいる。そしてその希望とは、わたしの中に住んでいるキリスト、栄光の希望である。

 誰でもないひとでいられるのは、なんて嬉しいことだろう。いまの世の中で、とっても大切なことかもしれない、と最近考えている。この世に消費されるためではなくて、神さまの目には見えない王国のために働くこと。それも無償で。ひとに与えること、ひとから奪われること、傷つけられても愛すること、わたしはそうやって天に財産を蓄えている。


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