神様からのラブレター ウィリアム・ブランハムの説教より (日本語訳)
毎週木曜日の夜、オンライン聖書講座の通訳をしています。そこで使う説教の引用を、いつも前もって訳すようにしていて、その訳文が貯まっているので、ここで公開してみようとおもいます。
いつも開始15分前に、牧師がMessengerで送りつけてくる文章を、やっつけで訳しているので、いろいろお察しください。
以下は、William Branham (1909-1965、アメリカ) の説教からの引用です。
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そういう気分になったから、救われるっていうものじゃないんです。気分で救われるようなことはない。わたしが救われたのは、わたしが神を信じて、聖書の求める要求に従ったからです。
悪魔にこてんぱてんにされることだって、あるかもしれない。明日の朝には、頭痛がして、もう見捨てられてしまったような気持ちになるかもしれない。でも神の恩寵が、あなたをしっかりと抱きしめているのです。そうですとも。あなたがどう感じるかではなく、どう信じるかなのです。
「感じたかい?」などと、イエスさまはお聞きになりませんでした。「信じたかい?」と、お聞きになったのです。そこには、まったくもって違いがある。感情によるのではなく、信仰によるのです。
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神の現れ方を、ひとびとは受け入れきれないのです。いつも神を偶像に仕立ててしまうのです。神に、なにかをしてください、と頼むとするでしょう。そしたら神は、頼んだとおりにしてくれないといけない、そうじゃなければ、祈りは答えられなかったのだ、と思い込んでしまうのです。そんなふうにしていれば、信仰が弱まってしまいます。
神をみことばのままに受け入れなければ、自らの証しの力を弱めてしまいます。神はいつだって答えてくださるのです。イエスがおっしゃいました、「求めなさい、そうすれば与えられる。尋ねなさい、そうすれば見いだす。叩きなさい、そうすれば開けてもらえる」 そういうふうにしてしか、神から何かを受け取ることはできないのです。
神をみことばのままに信じて、神が送ってくださる方法を信じること。じぶんのやり方に固執するなら、神を偶像に仕立ててしまうことになります。わたしたちのやり方でしてくださらなければ、神はどうしょうもない、答えてくださらないのだ、なんてね。神はいろんなやり方で、答えてくださるのですよ。変わったやり方でね。そのタイミングも、すべてが、変わっているのです。
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さあ、よろしいですか。聖書というのは、教会宛のラブレターなんです。たとえばわたしが海外に行ったときに、妻のミーダは手紙を書いて送ってくれます。「いとしのビリーへ。夜更けにいまこうしてあなたに手紙を書いています。わたしは赤ちゃんを寝かし付け終えたところです」とかなんとかね。
彼女が書いている文章の裏側にある本音をね、わたしは読み取ることができるんです。妻を愛していて、すべてを知っているから。文章の合間に隠された言葉を、読み取ることができるんです。彼女の言わんとすることが分かるんです。
神様が聖書を書かれたのもね、教会へのラブレターとしてお書きになったのです。愛をもって読まないといけません。冷えきった神学講座なんかからは、神を見いだすことはできませんよ。心に神の愛を抱いて、文章の合間を読まなくては。そこに真実が隠れているのです。