子どもの隣で読んでいる本たち (ウルフ、津島祐子だとかの感想)
「灯台へ」 ヴァージニアウルフ
最初から最後まで読みとおさないと、という義務感から解放されてやっと、ウルフは楽しめるのだといまさら気づく。しかし、それはもう一度苦行のように通読してあるからかもしれない。ことばと感覚のあの胸が痛くなるほどの豊かさとうつくしさを、偶然ひらいたページのなかに楽しむための本なのだ。そしてそれが出来るようになるには、こちらもある程度大人にならなくてらならなかったのだ。
子どもが隣でなにかをしゃべっていて、けれど曖昧な相づちだけでゆるして、母に読書を許可してくれているほんの数分のあいだ、迷いこんだ砂漠にみいだした泉みたいに、尊びながら、彼女の感覚のうねりに身をゆだねながら読むような、そんな本なのだ。それが出来る気分というのも、そうたくさんはない。時にはそんなに心の体力を使いたくないときもあるし、余裕のあるときだけ。なにも感じたくないようなときは、街道をゆくだのを読んでいる。
「山を走る女」 津島祐子
『多喜子は天井を見つめながら、両手で自分の腹を探ってみた。なにか包帯のようなものが厚く巻きつけてあったが、それでも地面のくぼみに浅く溜まった水に、手を浸してしまったような感触があった。確かに、ゆうべまでそこで育ち続けていた胎児は消え去っていた。』(24page)
あの子どもを産んだ直後の、あの言い難い下腹の気味悪い感覚を、わあ、このひとは言葉にしてくれた、と思った。こんな感覚が、わたしもした、と思い出す。
津島祐子、すごい。このひとの言葉は。これの前に読んだ「火の山」のなかのひとびとは、わたしのなかに住みついて、生きている。
ほかに最近読んでいた本
堀辰雄のいろいろ、「日本写真史」中公新書、アンデルセンの「絵のない絵本」、大宰治の「右大臣実朝」、夏目漱石の「行人」、チェーホフ「かわいい女、犬を連れた奥さん」、あとはなんだったっけ
思い返してみようとすると、なにを読んでいたのか思い出せない。(けれどいつだって何かを読んでいる) だからなにかを読むたびに、instagramに写真を載せているのだが、わたしの鍵付きのアカウントから、子どもだの家族だの、教会にいったり友だちとソーダを飲んだりする日常を求めているであろうひとたちには、ただただに迷惑な行為をしている。上の二冊は、誰に読んでもらうでもなく、instagram につらつらと書き散らした感想の再掲である。