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わたしの軛 (改訂版) ②


三年まえに書いた話を、
書き直したり、削ったりしてみました。
キリストの軛を負うこと、傷を癒されること、
虚しくないものを探すこと、
聖霊のバプテスマを受けること、
仕えることとか、心を守ることとか。
あらけずりな話ですが、
お読みになってくださるかたが、
この小説のなかから、
キリストを掬いとってくださいますように。
全六回のうちの二回目です。






3




 東京では桜が咲いたらしいが、北アルプスをのぞむ松本には、冷えびえと凍てつく風が吹いていた。八枝とパウロは教会の用足しに、いっしょに街へやってきた。先に用を済ませてしまった八枝は、女鳥羽川沿いの、にぎやかな縄手通りの、柳の下のベンチに腰かけて、パウロが店から出てくるのを待っていた。

 姑のものだったという、渋い紬を着た八枝は、江戸時代の風情がする街並みによく映って、ちらちらひと目を惹いた。きもの暮らしをはじめたきっかけは、蔵のなかから、代々の真木家の女性たちの、いくつもの嫁入り箪笥をみつけたことだった。クリスチャンらしい簡素な式で、嫁入り道具などとは無縁に嫁いできた彼女は、そういった古いものに捕らわれてしまいそうなくらい、惹きつけられるたちだった。

 「あの、すみません」
 「はい?」

 降ってきた声をみあげると、同年代くらいであろう、垢抜けた男が立っていた。華やかな雰囲気の、なかなかのイケメンだな、と八枝は冷静に観察した。

 八枝をまじまじと見つめると、男はこころの距離を一気に詰めて、たたみかけるような笑顔をみせた。

 「もしかして、蔵カフェで働いてたひとじゃないですか?」

 たしかに結婚前、祖母の知り合いが経営するカフェで、ほんの短いあいだアルバイトしていた。

 「ぼく、常連だったんだけど、覚えてくれてないかなあ。いつもモンブランを注文してたんだけど」
 「ごめんなさい、うっすらとしかわかりません……」

 八枝は申し訳なさげに言った。ひとを覚えるのは苦手だった。

 「ぼくはあなたを覚えてましたよ。いつの間にかいなくなってしまって、不思議に思ってたんです」
 「あのあと忙しくなったり、引っ越したりで、辞めちゃったんです」

 八枝の膝にあった小さな聖書に目を留めてから、ここいいですか? と断れないような愛嬌で聞いて、男は八枝のとなりに腰かけた。

 「やっぱり、あなたはクリスチャンだったんですね」
 「なんで?」

 八枝は、まるでわからない、と聞き返した。

 「ぼく、いろんなひとを見てきたから、なにか違うなってわかったんです。いつもロングスカートを履いてたし、お化粧もしないし、髪も長いし。とっても清らかで、ほかの女の子と違うな、と思ってた」

 近すぎるな、と不安に思いながらも、八枝はなんだかこの男を振りきれなかった。しかも話題が、彼女の信仰にさしかかったので、八枝はええいままよ、と腰を据えかかってしまった。

 「あなたは、神さまを信じてるんですか?」

 そう聞くと、男は真剣なまなざしになった。  

 「信じたいと思うことがあります。信じなければ、溺れてしまうようなときが。信じられるひとが羨ましいとおもうことがあります」

 男は聖書を指さした。

 「ぼくもこのあいだ、ホテルから貰ってきて、読んでるんです。なにかわかるかもしれないって。でもなかなか一人ではわかりませんね。教会に行ってみようかとも思うけど、敷居が高くって」

 あら、と八枝は微笑んだ。目立つのが嫌いな彼女は、街頭に立ってトラクトを配るような宣教は、神に直接命じられでもしないかぎり、出来ることなら避けたいと思っていたが、街なかでこんなふうに、魚が自分から飛び込んでくるみたいにして、教会に誘えるなんて、と思ったのだ。

 「古民家はお好きですか?」
 「......ええ、蔵カフェに通うくらいですから、まあ」 
 男は面食らった様子で答えた。

 「うちは古民家チャーチなんですの。ぜひいらしてくださいな」
 「古民家なんですか? それで着物をきているの?」 
 男は調子を狂わされたように、とんちんかんなことを口走った。

 石だたみの道を、足早に近づいてくるパウロの方をさして、八枝は言った。

 「あちら、うちの牧師さんです。パウロさん、このかた、聖書を読まれてるんですって」

 紺色のダウンに膨れて、しかくい顔に金色の髭をたくわえたパウロは、温和な目をすこし鋭くして、男を見た。

 「ハジメマシテ、アナタは?」

 いつもより片言な日本語は、脅かしているような、きつい響きがした。

 男は立ち上がって、久米と名乗ると、ためらうことなくパウロの大きな手をとって、両手で包んだ。

 「ぼく、神さまを探しているんです!」

 久米の目はまっすぐで、光をたたえていた。それに毒気を抜かれたのか、パウロはもうすこし流暢な日本語で話しはじめた。

 「うちの教会はカトリックでも、ニッキでもない。どこにも属していない、だから自由に聖書のままにおしえられる、小さなホームチャーチです。キリストを求めているなら、あなたはウェルカムです」

 「ぜひ!」
 そう言って久米は、ちらと八枝を見た。
 「それからこのひとは、ぼくの親友の奥さんです」

 パウロの言い方があまりに不躾で、八枝は顔を赤らめた。パウロは懐をさぐると、財布から名刺を取り出して、ここにぼくの連絡先と、教会の住所と、礼拝の時間が書いてあります、と渡した。

 久米と別れて、ある程度の距離を稼ぐと、パウロが英語で言いだした。

 「八枝ちゃん、あなたはほんとうに危ない」
 「でも悪いひとではなかったでしょう?」

 寒風を切ってゆくパウロに、きものの裾を気にしながら、ちいさな歩幅で必死についていこうと、せいいっぱいな八枝が反論した。

 「日本語でなんて言うのか知りませんがね、あの男は ladies' man ですよ。つまりあなたはナンパされてたんですよ」
 「でも、教会に来たいって言ってたじゃありませんか」
 「それが甘い!」

 いつも穏やかなひとの突然の剣幕に、八枝がひるんだのを見てとると、パウロはすこし語調を和らげて言った。

 「八枝ちゃん、あなたは魚でも釣ったような気でいるかもしれませんが、あの久米くんから見れば、あなたの方が釣られた魚ですよ。エリーもそうでした。教会育ちだから、感覚がずれてるんですよ。よくエリーも、ぼくや真木に叱られたものです」

 亡き妻の話になると、まだ彼女が生きているかのようにいきいきした口調になる、パウロの癖は変わっていなかった。八枝はエリーに会ったことはなかったが、いつも彼女が傍にいるような気がした。真木とパウロという、一枚岩のようなふたりのなかに、気後れしがちな八枝が居場所を見つけられるのも、以前そこにいたというエリーのお陰だった。時として八枝に与えられる位地は、自分に宛書きされたものではないように感じられたけれど。

 八枝は立場こそ違え、自分はエリーの後釜なのではないかと思った。それはきれいに結末のついた物語に納得するような、自分があやふやになって、自分以上のものを求められているような、矛盾した思いを八枝に抱かせた。




4


 冬と春が入り乱れる日々だった。三寒四温の温の方とともに日曜が来た。このあいだ会った久米が来るのを、八枝が心待ちにしているのは明らかだった。それが自分の撒いた種の成果を見たいからなのか、それとも自分の態度への非難を覆してみたいからなのかは、パウロにも図りかねた。八枝に約束させられたので、この件で真木は埒外にいた。それが正しいことなのか、疑問に思ったけれど、亡きエリーを思い出させられて、今のところは、という一語をつけて、パウロはつい負けてしまった。

 礼拝がはじまるまえのこの時間、やってきたひとたちの挨拶やおしゃべりで、屋敷は玄関から座敷にかけて、たいへんにぎやかだった。礼拝の始まるまえは、静かに祈ったり聖書を読んだりして、心を整えるように、と躾られてきたパウロは、この騒々しさに落ち着かなかった。けれどもここに集うのは、多国籍で自由な人たちばかりだったので、牧師の権限をもってしても、それを縛れそうにはなかった。八枝はいつも率先して、ひとびとをもてなす役を買っていた。ただ今日はその声が上ずっているような違和感があった。

 結局、時間になっても久米は来なかった。八枝は明らかに落胆していた。きっと頭に描いていた計画が、その通りにならなかったのだろう。するべきことをしたら、あとは神の時が来るのを待つというのは、若い彼女にはまだ難しいのかもしれなかった。

 図らずも、今日パウロが用意していた説教は、コヘレト3:11の「神のなされることはみな、時にかなって美しい。神は永遠を思う心をひとに授けられた」というところであった。それをメモを片手に訳している八枝は、いつもより冷静さを欠いているように感じられた。

 八枝は海外に住んだことはないのだが、バイリンガルの教会に育ち、大学で英文学を専攻し、院まで行かせてもらったので、語学力はじぶんで謙遜するほど、アメリカに住んでいた真木に劣るわけではなかった。大学生の頃から教会での通訳をしており、その腕を買われて、こちらに引き抜かれたのだ。こういった教会での通訳というのは、語学力や通訳の技能があればできるというものではない。聖書の知識、神学や教えの理解、独特なキリスト教用語に精通していなくてはならない。教会育ちで、サイマルの通訳コースも取ったという八枝は、やる気と向上心もあるし、理想的な通訳だった。けれども彼女の弱点をあげるなら、それは通訳に自分を移入しすぎるきらいがあるところだった。

 彼女に通訳をしてもらって、もう一年半ほどになるパウロに言わせれば、八枝のようにことばを一旦内面化するやり方は、嵌まりさえすればとてもやり易く、油を注がれるように、説教も滑らかに進んでいくのだが、嵌まらなかったときには、砂を噛むように歯がゆいものがあった。それは八枝が英文学専攻であって、英語学をやったわけではないこと、彼女が文系で、決して理数系ではないのも原因かもしれなかった。文学少女は語彙や言い換えに長けていたが、時としてことばのうつくしさを気にしすぎ、説教の本質を曖昧にしかねない一面があった。

 今日は嵌まらなかった方だと、パウロは思った。そしてそれを八枝自身感じているのが、痛いほどに伝わった。ぴったり嵌まらなかった一語一語のために、彼女が心中じぶんに鞭打って、それがまた次の言葉に、悪い作用をしていくのが、手に取るように感じられた。途中でパウロは、八枝が泣き出すのではないかと心配になった。真木は明らかにそわそわしていたが、きっと交代すべきか迷っていたのだろう。迷うくらいならさっさと代わればいいのにと、パウロは思いもしたが、八枝が自分から言いだすまではと、彼女の気持ちに配慮していたのだろう。真木はそういうところで、気を使いすぎる人間だった。

 これ以上崩れられはしない、というところまで行ったとき、八枝は観念したように後ろをふりむいて、真木にごめんなさい、と言うと、しずかに通訳の席を下がった。真木は軽くうなずくと、説教に穴を明けぬよう、パウロの方をみて、直近の一節を繰り返してくれるよう頼んだ。真木はすこしぎこちなくはあれど、つつがなく代役を勤めた。八枝が冷静な判断を下せたことに安心して、終わったとき、パウロは自分がなにを説教したのかさえあやふやに思った。

 「ごめんなさい」
 礼拝のあとに、八枝はパウロのもとに来て謝った。
 「ほかのことに、足をすくわれちゃったみたいだね」
 パウロは正直に言ってしまった。
 「わたしが未熟なせいです。もっと精進します」
 近ごろの八枝には、思い詰める癖があったから、パウロは心配になった。

 「八枝、具合悪いの?」
 八枝と仲良しなフィリピン人のマリアンが、そっと寄ってきて八枝の肩に手を廻した。
 「ごめんね、ちょっと休むことにする」

 八枝は昼食もとらずに、二階の寝室にひとりで上がってしまった。屋敷で教会を開いているときに、彼女が客を残していってしまうようなことは初めてで、よほど通訳の失敗が堪えているようだった。

 真木はその様子を始終見ていたが、二階に上がった妻のあとを追いはしなかった。それも彼の日本人らしい羞恥心や、客を残していく非礼を嫌う故であろうと、パウロには察せられたが、みなのあいだに、どことなくそらぞらしい空気が漂った。



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