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あなたと共に生きる喜び (短編)



「恋に落ちれば」
というわたしの本の、
いちばん最後に載っている
おはなしです。

 



 《joie de vivre avec toi》 

 よせてはかえす波を見ていた。青緑色をした、しずかな曇天の海を。なんだか恐竜でも現れそうな、原始的な海だった。薄明かりの空に、いまにも翼竜が飛んできそうだ。雨に濡れた、砂鉄色の波打ち際にしゃがみこんで、ぼくたちはただ無言で海を眺めている。

 「ヴィクトリア女王のレースみたい」

 となりで妻が呟いた。海の白い指先が、砕け散るまえの一瞬、繊細にもつれて、えもいわれぬ模様を作りだす。ぼくが白亜紀に思いを馳せているあいだ、妻はまったく違うことを考えていたんだなあ、とぼくはいとおしく思った。

 「ヴィクトリア女王って誰です?」
 「まあ、ご存知ないの?」

 妻の丸みがかった瞳には、四十近くになったいまでも、やさしい夢のヴェールが掛かっている。神様にふんわりと包まれて、いままで生きてきたのだ。ぼくの無知のせいで、その細い眉が困ってよせられている。

 「じゃあ、ケツァルコアトルスって知ってます?」
 「ケツァ?」
 「白亜紀の翼竜。体長が10メートルもあったんですよ」

 ヴィクトリア女王 (妻曰く、19世紀イギリスの女王さま) のレースを忘れて、ぼくたちは巨大翼竜が飛ぶすがたを想像した。そんな大きな生き物が空を飛んでいるなんて、どんな光景なんだろう。遠い波の果てで、頭でっかちで滑稽なケツァルコアトルスが、風に波たつ水面を浚うように魚を咥え去っていった。

 「神さまって、変なものをお作りになるのねえ」

 帰ったら調べてみますわ、そのケツァなんとかっていう恐竜を、と妻が言う。よくまあ、ぼくの曖昧な知識による下手な説明で想像出来たものだ。そろそろ行こうか、と淡い水色の肩にふれる。足首まで届く絹のような服が、揺らぎながら立ち上がる。ぼくはその姿をほれぼれと眺めた。

 波に浸食されたコンクリートの階段を上がって、停めておいた車のもとまで来ると、名残惜しそうに妻はなんども海の方を振り返った。だんだん風が吹いてきた。波はやや荒れ始めている。

 「海なんて、滅多に見られませんものね」
 「寂しい?」
 「そうね。北アルプスの山々だって、神の領域のような神々しさを感じるけれど、海は海で、見つめていると神さまと語りあえるような気がしますもの」
 「まだ逃げたいと思う?」

 黒い車体に波飛沫が散っているのを、指で拭きとりながら、妻は目を伏せた。

 「いまさら逃げられもしないもの」
 「ぼくに捕まってしまったから?」

 ふふふ、と妻はもういちど海の方を振り返った。荒れてきたわねえ。その長く柔らかな髪が、風にのって頬のまわりに纏わりつく。どうして、ぼくを真っ直ぐに見つめてくれないのだろう。

 「ぼくなんかと再婚しなければ、今ごろは海を眺めながら、悠々と暮らせていたかもしれませんよ」
 「そうかもしれないわ。でも神さまから逃げたって幸せにはなれない、と言ってくれたのはだあれ」

 ふわりと妻が笑う。それがぼくには愛おしくてたまらない。

 「あの頃のあなたは、生きていたくない、なんて呟いていたから」
 「もう大丈夫よ。だれかさんがわたしを、人生の渦に投げ込んでくださったから、いまは忙しい一日を生き延びるのに精一杯」

 いつ以来だろう、ふたりきりで外出するのは。子どもを預けて、ひさしぶりの海を眺めながら、妻はやわらかく輝いている。このひとは、またなにか啓示を掴んだらしい、そんな表情をしている。

 「わたし、ようやく分かってきた気がするの。わたしのなかに生きている神さまと、日々を一緒に過ごすのは、それだけで生きてゆく理由になるんだってこと」
 「……あなたと共に生きる喜び、なんて歌詞の讃美歌がありましたね」

 そう言ってぼくは、おぼろな記憶を辿って、口ずさむ。その一節だけは覚えていたものの、その先が続かない。
 
 「ええ、神さまとともに生きる喜び、ってことを、最近よく思うの。神さまは少しずつ、わたしを癒してくださっていて、ついに心身が自由になったような気がするの。やっとトンネルを抜けだしたみたい」

 人気のない駐車場の端で、ぼくは思わず妻を抱きしめた。なめらかな布をはらませる潮風と、やさしくうつくしいひととを、両腕に閉じこめて。

 「あなたが、もういちど生きる気になってくれてよかった。あなたが苦しんでいると、ぼくも苦しい。あなたはぼくの半分だから」

 ちいさく抗う妻をなだめるように、その背を撫でる。すべてを掻き消すような波の音がする。人目から、霧雨から庇うように、ぼくは彼女を包み込んだ。

 さっき歌った、あの一節を、その耳にささやくと、腕のなかのひとは真っ赤になった。そういうことじゃないわ、とくぐもった声がする。

 「ぼくはあなたを、キリストがぼくを愛してくれているように、愛していますよ」

 何度でも、ぼくは彼女に囁く。何度あしらわれようとも、決して諦めることなく。

 「あなたは信州人のようでいて、本当はフランス人なんじゃないかと思うことがあるわ」
 「ご存知の通り、すいか農家の次男坊ですよ。親父はJAを定年退職して、町会の役員をしている」
 「それにしては顔が良すぎるわ」
 「どうも。この顔が、いつかあなたがぼくに、恋に落ちてくれるのに役立ってくれたら嬉しいんですがね」

 霧のような秋の雨につつまれ、いつの間にかそぼ濡れていたぼくの腕の中で、妻がかすかに震えた。帰ろうか、と黒いドアを開ける。灰色にけぶった海沿いの道を走りながら、だんだんワイパーが速くなっていく。だいぶ走ったあとだった。暖房を弄りおえてから、首を背けてしずかに海を眺めていた妻がぽつりと言った。

 「落ちてない、とも言ってないのにね」

 一瞬、信号の赤を見逃しそうになった。強引なブレーキに車が揺れる。警察署の前だというのに、車は停止線から一台分はゆうに越えて止まった。

 「次に切符を切られたら、ぼくは免停ですよ?」
 「安全運転を心がけることですわ」

 しゃあしゃあと妻が言う。信じられない、という顔で助手席をみると、雨粒に濡れたフロントガラスを指さして、前を向くようにと催される。信号が青に変わった。




 【どうでもいい追記】

 これを書くときに、ほんまにヴィクトリア女王知らんひといんのかいな、と思って、夫に確かめてみたら、知らなかった。ケツァルコアトルスは知っていた。わたしの知らないボーイズの世界……。

 このお話は、以前「みうではわれを掻ひて抱かふ」という難解な題で投稿したことがあります。本に収録する際に、題を変え、中身をすげ替えました。

 

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