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わたしをすり抜けていった本たちの記録
海の沈黙 星への歩み ヴェルコール (岩波文庫)
第二次大戦下のフランスのレジスタンス文学。『海の沈黙』このうつくしい、うつくしい物語に、わたしはシュトルムの『みずうみ』を思いだした。けれどシュトルムには、こんな魂を捻じ切られるような感覚は覚えない。わたしにはここに出てくる善意のナチス将校が、ロシアの兵士たちに重なってみえたから。
『みずうみ』のように、この物語も破れた恋の物語かもしれない。『みずうみ』は感傷的だけれど、あまりにもうつくしい。でもラインハルトがエリーザベトに捨てられたからといって、それがどうしたというのだろう。あれはわたしのなかで最もうつくしい物語だった。だからこの『海の沈黙』に、いまわたしは揺さぶられている。
『海の沈黙』のなかの破れた恋は、ナチス将校とフランス娘のものではない。いま、1945年に置きざりにしたと思っていた世界を目の当たりにしているいま、この物語を読んでわたしはただしずかに震えている。
大作曲家の信仰と音楽 P カヴァノー (教文館)
古本屋の充実した街はよい町だ。古本屋というほどのものがなくても、BOOK・OFFの棚に並ぶ本の品揃えでも、その街について知ることができる。この本は、信州の松本で買ってきた。なんてすばらしい街! 駅前に大きな丸善はあるし、何軒かはいった古本屋は天国のようだった。
女鳥羽川の近くの、暗い古本屋の店内で、本に挟まれながら、窓からのうすい光を頼りにこの本を手にとった。タイトルを見ておもったのは、まあバッハについてでも書いてあるんだろうなあ、である。バッハは信仰に生きたひとだ、みんなが認めている。もはやそれを言い立てるのは陳腐なくらいに。
ではこの目次を撮ってみたので、みていただこう。
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バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、メンデルスゾーン...... ワーグナー!?
わたしもワーグナーは、やり過ぎだと思う。ワーグナーは。けれどもシューベルトやベートーベンの章はとてもたのしく読んだ。
まともな信仰生活を送った方々に共通していたのは、自分の才能を神から与えられたものと常に自覚すること。そして神から与えられたものを、神のために使うことであった。この世のために使えば、この世でいい暮らしをできるかもしれない。シューベルトはこの世でよい暮らしをしましたか? けれどシューベルトがこの世にへつらった音楽を書かなかったから、いまわたしたちはシューベルトを愛している。
わたしの好きなピアノソナタは、シューベルトの21番と、ベートーベンの31番だ。これを読んでいて、やはりこれらの曲に感じるものは、なにか霊的なものだったのだなあ、とふたたび認識した。わたし、メリー・ウィドウとかも好きなんですけれどね。
月と六ペンス サマセット・モーム (新潮文庫の新訳)
モームはいろいろ読んだ方だと思う。『アシェンデン』も読んだし、『サミングアップ』と『お菓子とビール』『世界十大小説』も読んだはずだ。
なぜ『月と六ペンス』だけ手をつけていなかったか。それは中学校の授業でみせられた、ゴーギャンの『悪霊がみている』という絵がトラウマになって、ゴーギャン恐怖症になったことがあるからだ。
NHKで『びじゅチューン』という子ども番組がある。ご存知ならば話しが早い。あの番組でゴーギャンは、うなされる存在ではなく、カーレースのレーサーである。「我々はピットクルー、レーサーはゴーギャン!」 だからうちの子にとって、ゴーギャンはレーサー、過去と現在と未来のわたしたちがあなたを支えてる。意味がわからないけれど、びじゅチューンという番組自体意味がわからないのだ。
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか、というのは、カテキズムに出てくる質問らしい。マツモト建築芸術祭で、釘町彰氏の作品のステートメントにそのことばを見たときに、なにかはっと得るようなものを感じた。
それはわたしのなかでくるくると渦をまいて、足りない頭を引っ掻きまわし、絶対的なものについての考えとなって出てきた。わたしは、わたしがどこから来て、わたしが何者であって、わたしがどこへ行くのかを知っている。それは教理問答で教えられたからではない、生えてきたように、わたしのなかに自覚があるのだ。わたしが神から来て、神のものであり、神のもとへ帰っていくのだということは。
これらはすべて、わたしの書いているクリスチャン小説で、主人公の真木さんが説教として語っている。考えていたのはわたしかもしれないけれど、説教しているのは真木さんである、念のため。
それでは『月と六ペンス』を読まなくてはならない、とわたしは律儀に読んだ。いやはや、とても面白かった。そうなのだ、モームは面白いから、いろいろ読んでいたのだ。忘れてた。
本を百冊読むひとよりも、百日かけてでも一言一言味わって読むひとの方が多くのものを得ている、とこないだどこかで読んだ。わかっているのだ。わたしは乱読の速読で、擦りきれるまで宮沢賢治を読んでいた友だちに、いつも宝石を見るような憧れと尊敬を抱いている。どうして生き急ぐように本を読まずにはいられないのだろう? 二才児を育てていて、本を読む暇なんてほんとうはないはずなのに?
わからない、わたしにはわからないけれど、本を読まずにはいられない種族に生まれてしまったらしい。だから仕方ない。そのことさえも、神に用いていただければいいと思っている。
↓真木さんのお説教