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あなたと共に生きる喜び
「わたしがまだ罪人だったころ
キリストはわたしの為に
死んでくださいました。
彼はそのようにしてわたしへの愛を
お示しくださったのです」
いま、じぶんでも恥ずかしいような、古い小説を焼き直して投稿しているのだけれど、そんなことをしているのも、その小説の終わりに、聖霊のバプテスマを受けるシーンがあるからなのだ。
聖霊を受ける、なんて場面を、小説で読んだことはほとんどなかったから、もしかしたら、恥を忍んでもそうする価値があるんじゃないかと思った。いつも聖霊を宿して生きる歓びについて書いていたから、聖霊をいただくことについても書いておこうと。
わたしが聖霊を受けたのはいつだったか、むかしのことを思いだしてみるまえに、聖霊を受けた証拠とはなにか、考えてみることにしよう。
異言をかたること、それが聖霊のバプテスマの証拠だ、というひともいる。異言をかたるのはすてきなことだ。異言で祈るのは、とってもいい。だけど、もっと納得のいく説明をしっている。
それは、人生が変えられること。どういったらいいのだろう。付け焼刃じゃなくて、なにか内側から生まれいづるものによって、じぶんが変わっていく感覚。キリストはもう、頭で捉えるものではなくて、魂のなかに感じるものになる。
「悔い改めなさい、そして罪の赦しのために、イエス・キリストの名によって、洗礼を受けなさい。そうすれば聖霊の贈り物をいただくことができます」(使徒行伝二章三十八節)
あらためて、わたしが聖霊を受けたのはいつだったか。十六才のときだったかな。あれは東日本大震災の年だった。あの夏、アラバマに行ったとき、聖霊が礼拝に降りそそいで、みんながわたしのために祈ってくれて……
母がわたしを抱きしめて、母娘ふたりで泣きながら祈る写真が残っている。わたしが聖霊を受けるのをみて、母はどれだけ嬉しかったことだろう。かのじょが娘のために願った、いちばんの願いはそれだった。わたしが聖霊を受けること。キリストをやどして、生きること。
けれどわたしはまだ若すぎて、しっかりキリストの軛を背負うことはできなかった。近づいては、よろけてしまうような、そんなよちよち歩きをしていた。わたしがほんとうに迷いを捨てて、キリストと生きることを決めたのは、たぶん子どもを産んだときだったとおもう。
宿したばかりの聖霊は、種みたいに小さい。すこしずつ古いじぶんが衰えていくことによって、聖霊は木のように育っていく― そんなふうに、牧師が語っていた。それからまた、聖霊というのはいちど受ければお終いではない。ガソリンみたいに、なんどもなんども給油していただくものだとも。
さいきん、わたしにとって特別におもえる言葉がある。それは、あなたと共に生きる喜び、というのである。その言葉から始まる歌があって、それを口ずさぶたびに、わたしのなかに、なにかが溢れる。心のなかに、拡がりを感じる。生きていく理由をみいだす。
たとえば白い壁に映った昼のひかりにも、わたしはキリストと共に生きる喜びを感じる。アカメガシワのきいろい葉と木漏れ日に、足をのばしてふれる冷たいシーツに。わたしはただ、彼と共に生きていることが嬉しい。彼は目にみえない。だけど探そうとするなら、どこにだって彼がみつかる。
キリストと恋をすること。もしかしたらわたしは、それに近づけているのかもしれない。頭で考えだすのでもなく、環境に強いられるのでもなく、ただじぶんのなかにキリストの霊がやどること。そしてそこから歓びが泉のように生まれてくること。
この世界で、希望をうたうためには、聖霊が必要だ。道のまんなかを歩くためにも、狭い門をくぐるためにも、生きていくためにも、とにかく聖霊が必要だ。聖霊なしで、あかるいうたを歌うことなんかできない。
たくさんのひとたちが、これを求めた。辿りついたひとは、多くなかった。あるひとはそれを求めて、社会を変えようとした。あるひとは哲学に、あるひとは芸術に、文学に、答えを求めた。透きとおった水の源を、いろんなひとが探ろうとした。本を読むことは、そうしたひとたちの足跡を辿ることでもある。
だけれどもほんとうの答えは、ばからしいくらい単純で、見落としてしまいそうなくらいシンプルだ。そういうものなのだと、キリストが言ってる。聖霊の賜物をいただきなさい。わたしのもとに来て、休みなさい。あなたは衰え、わたしが栄えねばならない。
本を読んでいて、ああ、このひとが聖霊を見つければなあ、とよくおもう。そういうふうに、なにかを探しているひとの本が好きだからかもしれない。ああ、このひとが、このキリストと共に生きる喜びをみいだしたらよかったのになあ。
魂の深い言葉の先に、わたしはキリストをみいだす。書いているひとにも、みえているかは知らない。ああ、あと少しで、手が届きそうよ、とおもうこともある。けれど宗教だとか、哲学だとかに邪魔されて、ほんとうのキリストに至れない言葉をたくさんみてきた。
どうやったら聖霊を受けられるのかという問いに、わたしは「使徒行伝二章三十八節」 としか答えられない。神の御国は、ハウツー本のようにははたらかない。いろんな方法で、いろんなひとが聖霊を受けてきた。神さまにはどんな方法だって可能だ。だからわたしの経験も、小説のなかに書いた場面も、ただの参考にしかならないだろう。
それでも、聖霊を求めるひとは幸いである、そのひとは満たされるから、と聖書は言っている。すべてのことと同じように、なにもかもまず信じることから始まる。信じるなら、なんでも祈り求めるものは与えられる、とキリストがおっしゃっていたから。