わたしの軛 (改訂版) ⑤
9
ふと目が覚めたとき、辺りはまだ暗かった。布団から出た顔や手に、山国のしんと凍るような寒さを感じて、ああ、そうだ、ここはアメリカ南部じゃないんだというのを、改めて思いだした。
夜に目が冴えたときは祈るとき、というのがパウロの決まりだったから、枕元のスタンドを付けて、聖書をひらいた。かすかな光に照らされたアパートの部屋は、ひとりで住むにはすこし広かった。ちくりと胸を痛みが刺す。きっとこの痛みは棘のようにして、ずっと自分を刺していくのだろうな、使徒パウロの言う、高慢にならぬように与えられた、肉体の棘のようにして、とただのパウロは思った。
けれどこの棘に刺されている限り、パウロはエリーを肌身に感じられるわけだった。このことに関しては、前に進む気もなかったし、ただ今のままでいたかった。
アメリカにいた頃の真木が、おれはここで傍観者なんだとよく言っていた。ふしぎにその頃の親友を、パウロはいま日本でなぞっているのだった。けれどパウロはエリーと一緒だった。真木も、そしてエリーに会ったこともない八枝さえも、それを受けとめてくれているようだった。
いつも彼らは三人だった。まあ、真木と八枝には、子どもが出来るかもしれない。そうすれば変化するけれど。真木の子どもなんて、どれだけエリーが可愛がったろうなあ。エリーは東洋人の赤ちゃんが好きだった。養子にしようかといっていたくらいに。
きょうの礼拝のこと、教会のひとりひとりのことを祈りながら、パウロの思いは久米に行きついた。主よ、どうぞあの青年のうえに、みこころを成してください。どうぞ彼をあなたの方法でみちびいてください、アーメン。
いつも礼拝の一時間まえには、教会についていた。とはいえ真木家の家作に住んでいるのだから、歩いて二分の距離なのだけれど。屋敷につくと、真木が挨拶もぬきで、今日はおれが通訳してもいいだろうか、とパウロにきいた。なんとなく真木が考えていることはわかった。
「でもお前より、八枝ちゃんのほうが、ずっと上手なのになあ」
そうパウロが言ったのは、半分ほど冗談だった。八枝のような専門教育は受けておらずとも、真木の通訳は、聖書への憧憬の深さがつたわる良さがあった。八枝がここに来るまで、ずっと真木がパウロの通訳をしていたのだから、本気でけなすつもりはない。
「それをわかっていながら、妻のために通訳を引き受けるっていうんだ。泣けるだろ、文句言うな」
まあ、頑張れよ、とパウロは親友の肩を叩いた。そのうちに礼拝堂にひとが満ちてきた。久米もやってきた。二週連続やってきた若い青年ということで、久米はみんなにちやほやされていた。彼は日本人にはめずらしく、天性のひとたらしの社交家だったので、もうすっかり教会に馴染んでいた。
一座を観察していたパウロは、輪のなかにいる久米の目が、すこし離れたところの八枝をとらえて、悪びれず大胆に笑いかけるのを見た。八枝はすこし驚いたようだったが、邪気のない久米の笑顔におされて、自らも笑みを返した。なぁんで監視カメラみたいに、こんなやり取りを見張ってなくちゃならんのだと、パウロはうんざりした。牧師だから、というのが、多分答えなのだけれど。八枝の祖母もすこし案じ顔をした。真木はどこかに行っていたから、そうです、おばあさま、なにか言ってやってください、とパウロは心のなかで、おばあさまを当てにした。
礼拝が始まると、真木が通訳するというので、ひとびとはざわついて、八枝の方をみやった。Is she pregnant という声がかすかに聞こえて、八枝が顔を赤くしながら、首をちいさく、でもはっきりと横にふった。こういった好奇の目から、真木は八枝を逃してやりたかったんだろうにな、とパウロは思った。教会に住んでいる彼らには、逃れがたいことなのかもしれないけれど。
パウロはしずかに、注意を自分に引き寄せた。きょう彼が語ろうとしているのは、神はひとの心を求めておられるというものだった。真木の通訳は八枝ほど技巧はなかったが、淡々として聞いていて疲れなかった。制御されていて、むだに感情を消費することがないそのやり方は、とても真木らしかった。
「神が求めているのは、あなたの仕事ではなく、あなたの心なのです。わたしたちが救われたのは、ただ神の恵みによるのであって、なにかをして、救いを稼いだわけではないのです。それはわたしたちが自らを誇らないためでした。神の与えてくださった愛のうちに生きるものは、決して自らを誇りはしないのです」
いつもよりもずっと後ろに座っている八枝の目が、すこし光ったのを、パウロはとらえた。キリストの陽を浴びて、氷はすこしずつ溶けてきていた。それと同時にパウロは、自分の心のなかにもある、永久凍土のような傷のことを思った。そしてそれを秘めつづける自分の傲慢さを。その傷を舐めまわして、イエスの癒しを受けいれようとしない自分を。
考えてみれば、エリーのことは関係ないのだった。傷を抱えこんでいるのは、エリーのためだと思っていたが、それは前に進みたくない自分の甘えであった。再婚や新しい出会いとも関係ない。パウロはもうエリー以外の女性を愛せはしないと知っていた。きらきらと光って消えていったうつくしいエリー。はじめから天上に属していたような強く儚いひとを、短くとも自分に繋ぎとめていられただけで、パウロは満足だった。
説教が終わると、いつも祈ってほしいひとが前に来て、パウロが手を置いて祈ることになっていた。けれどもきょうパウロは、真木とアロンを前に呼んで、ぼくのために祈ってくれますか、と訊ねた。仔細は言わなかった。けれどずっとしがみついていた傷をキリストにあけ渡したパウロは、聖書の約束する癒しを、その傷のために受けとった。
10
汚れた皿が積み重なるのを前にして、八枝はたすき紐をとりだすと、手慣れた手付きで袖をたくしあげた。北と西に窓の空いたこの広い部屋は、いまのように午後になってからの方がよく日が当たった。流しから庭を眺められるように一枚の横長のガラスが填まっている。窓のそとの庭には、一本の古いしだれ桜が、苔むした岩や徐々に芽吹いてくる草木と、目にあざやかな対照をなしていた。冬のあいだずっと庭は枯れていて、色がなかったから、それはとくに新鮮に迫った。
「お昼ご飯は、いつも八枝さんが作ってるんですか?」
いつの間に声がして驚いた。久米が八枝の肩越しに、シンク一杯の洗い物を眺めていた。ぼくも手伝います、と言って久米も袖まくりしはじめた。
「そうですねえ、だいたいわたしがやっていますねえ」
八枝は間延びしたようすで答えた。
「わたしが来るまえは、みなさんが持ち回りで作って、持ってきてくださってたんですけど、お鍋を持ってくるのは重いでしょ。ここでわたしが作った方が、面倒がないと思って」
「八枝さんがこの家に来たのはいつ?」
久米は皿を器用にすすぎながら、持ち前の好奇心できいた。八枝はそれを受けとって、食洗機に並べていく。
「一年くらい前ですかねえ。わたし、実家が東京なんです。東京の教会で通訳をしてたら、こちらを助けてくれないかって、パウロさんに引き抜かれて、松本に来たのが、一年半前くらいですねえ」
「真木さんとは? だいぶ年が離れてそうにみえるけど」
「ええ、十五も違うんです。真木は三年くらい前からときどき上京して、東京の教会に来ることがあって、それで顔見知りだったんです」
「へえ。ぼくは二十五ですけど、八枝さんは?」
「あら、じゃあわたしのほうが一つ年上ね!」
八枝は無邪気な優越感をしめした。八枝は気づかなかったけれど、それがなんだか不快だったらしい久米は、すこし声に含みを出しながら聞いた、
「大変じゃありませんか?」
「大変って?」
久米はすこし横を向くと、惹きこまれてしまいそうに黒目の深い瞳で、八枝をみつめた。なんかちょっと近いなと思って、八枝はこっそり体をずらした。
「八枝さんは生活のすべてが、神や教会に支配されてるんですね。家にいてもどこにいても、自由なんてないんじゃないですか?」
「わたしの生活のすべてを、神が支配しているといってくださるなら、それは誉めことばですわ」
「そうですね、あなた方はそういうひとだ。でも教会は? みんなとても好い人だろうけど、ぼくだったら自分の家に、いつもひとがどかどか入ってくるのは嫌だと思いますよ。ひとに見られてばかりいる気になりそうで。ぼくみたいな、どこの馬の骨ともしれない人間が、自分の家をうろつくのは?」
これを言っているのは、ほんとうは久米ではなくて、なにかが自分を試そうとして、久米の口を借りているだけでは、と八枝は感じた。
「真木さんやパウロさんは覚悟が違うし、ぼくらよりずっと大人じゃないですか。彼らはそれでいいのかもしれない。でも八枝さんは、ぼくと変わらない、まだ若いふつうの女の子でしょ? あなたは、彼らが耐えられるほどには、耐えられてないんじゃないですか? なんかぼくには、八枝さんが無理しているように見える」
久米などを遥かに超えた力に攻撃されているのを感じて、八枝はすこし息を整えてから言った。
「大変かと言われれば、大変です。無理しているかと聞かれれば、たしかにそうかもしれない。でも、わたしは神さまに呼ばれて、ここに来たんです。東京の家を出たのも、真木と結婚したのも、ぜんぶ神さまのお命じになったことに従っただけなんです。これが神さまのみこころだと知っている以上、信じてここに踏みとどまるのが、わたしのできる唯一の戦い方なんです」
そう言い終わるやいなや、八枝は久米の腕のなかに閉じ込められていた。久米は八枝を抱きしめながら、その背中をやさしくいたわるように撫でた。
「久米さん、だめです」
八枝は低い声で言った。
「ごめんなさい。がんばってるなって、愛おしくなっちゃった」
「離して」
「嫌だったら、大声を出せばいい。だれかが助けに来てくれますよ」
八枝はこんな目に合うのは初めてだった。しかし自分でも驚くような冷静さで、ことばに出さず、神に知恵を求めることができた。
「わたしが大声を出したら、あなたはもう教会に来られなくなってしまうでしょ。あなたはほんとうは、神さまを求めてここに来たのに」
久米はすこし呆気にとられたようだった。その隙をみて八枝は、思い切り背伸びをして、久米のあごを頭突くと、彼が怯んだすきに、腕から逃れた。思いついたもうひとつの方法は、急所を狙うことだったけれど、こちらはさすがに遠慮したのだ。
あごを手で押さえる久米を残して、八枝は出口に急いだ。けれど八枝は、ふと立ち止まって、久米のほうをむいた。顔は紅潮しており、その肩はちいさく震えていた。それでも八枝はドアから出ていかず、そこに残った。
「久米さん、わたしのこと、赦してくださいますか?」
「どうして?」
狐につままれたような久米をみつめて、八枝は言った。
「わたしは、久米さんを赦します。だから久米さんも、わたしのことを赦してくださいな」
久米がまじまじと見つめる八枝は、いま輝くようにうつくしかった。久米は、八枝のことをいつも可愛らしいひとだと思っていた。しかしこの一瞬で、彼女は手を触れてみたいなどと、欲を起こせる次元を超えてしまった。赦しを口にしたとき、緊張していた八枝の表情は、言いようのない安らぎにつつまれ、澄みわたった。
「八枝さんはふしぎですね」
久米は呟いた。
「どうしてぼくのことを罵らないんです? どうしてあなたが赦してというんです? こういうとき、ぼくはいままで何度もビンタされてきましたよ?」
八枝はなぜ自分にも非があったのかを、パウロの言葉を思い出すまでもなく、今更ながらに悟ったのだが、それはいま久米にいうようなことではなかった。自責の念を打ち消しながら、八枝はこう答えた。
「キリストがあなたを赦してくださったように、お互いに赦しあいなさい、って書いてあるんですもの」
「八枝さん」
久米はキッチンに手をついて、身を支えながら言った。
「真木さんとパウロさんに伝えてください。ぼくはやっぱり洗礼を受けようと思うって」
八枝は花ひらくように笑った。