からっぽ
もはや胃のなかには、なにも残っていない。
(という書き出しを思いついて、なんと無駄に壮大な、と愉しくなる)
なぜだかわからないけど、二日前から、わたしと息子はとつぜん吐くようになった。伝染るわけでもないらしく、ほかの家族は無事でいる。さいしょはちょっと、つわりか、と疑った。けれどつわりなら、息子まで罹るはずはなく、これは本の悪阻だろう、と思っている。
胃もおなかも、からっぽです。
本を作るのは三度目だが、いつも目に見えない妨害が入る。いままでは扁桃腺がやられていたのに、それを仙人草治療で克服したいま、こんどはこの手で来たらしい。攻撃されるだけの価値あるものを作ってるんだわ、と敵に嗤いかえしてやっている。わたしの仕える神さまが目には見えないように、神さまの敵もまた、目には見えない。
息子を妊娠していたときの悪阻は、壮絶だった。三ヶ月のあいだ、ほとんどなにも食べられなかった。体重は三十キロ台にまで落ちこんで、四六時中吐いてばかりいた。
お隣の部屋のお姉さんに、いつも吐いてばかりいてごめんなさい、と謝ったら、あら、ふさえちゃんの声なんて、ぜんぜん聞こえないわよ。でもそういえば最近、どこかのオジさんがゲエゲエしてる声が聞こえてねえ、と言われて、そのオジさんがわたしです、と申し訳なくなった。
あの恐ろしい悪阻を思いだすような、ここ数日だけれど、わたしは祝福されている。きのうは義母がきてくれて、洗濯をし、わたしたちの看病をしてくれた。真昼からベッドによこたわっていると、わたしの顔に木洩れ日がさして、みあげると、アカメガシワの枝のむこうに、太陽がほそくなって揺れていた。わたしはただ、休んでいるだけでよかった。小さな子のいる母親が、病気になって、ただ休んでいられるなんて、それはものすごい祝福。わたしはただ、み腕のなかで休んでいる。
灯台のことを、書いてくれたひとがいた。それを読みながら、灯台のなかは、からっぽだったなあ、と思いかえしていた。あまり灯台経験はない。近くの観音崎灯台くらいしか、行ったことはない。そのなかみは、高いところへ上がっていくための螺旋階段と、そしておおきなレンズで出来ていた。灯台は、光を灯すのが役目。遠くの海からもみえるように、らせんの階段で、高く高くあがって、あとはひかりを灯して、そこに佇んでいる。
からっぽになること、休むことについて、このあいだナイジェリア人のKさんの説教で、面白いことを言っていた。
というみことばの、休む、とはなにを意味するのか。それをKさんは、ガラテアの手紙にでてくる、肉のはたらきと結びつけた。
それでは休むとは? みずからを聖霊にゆだね、からっぽになって、それからどうなるのでしょう。
ガラテアの手紙はそう続ける。
「いいかい、肉のはたらきは、働きでも、聖霊のは、実であって、働きとは呼ばれていないのに、注意しなくちゃいけないよ」
Kさんが、確かめるように言った。というのもわたしが誤訳して、聖霊の働き、というふうに訳してしまったから。きっと聖霊の働きで、それを察知したんでしょう。
「果樹は、じぶんでどうこうして、実を結ぶわけではないでしょう。太陽と雨を浴びて、土から栄養を吸って、しぜんと実がなる。作りだすわけじゃない」
「聖霊が結ぶ実も、そう。じぶんで作りだすものではない。キリストをみずからの内にやどせば、おのづから果実が出来てくる。それが聖霊の実、愛や喜び、平和に寛容だとか、そういったもの」
それを例えられる体験を、わたしもしたことがある。あの悪阻。あのとき、わたしはほとんど栄養もとらず、はたらきもせず、紡ぎもせずに、ただ吐いてばかりで、晩夏から初冬までを、寝て過ごした。
それでも、どういう仕組かはわからなかったけれど、わたしの栄養をすべて吸い取って、お腹のの子どもは日々大きくなっていった。胎内に宿った生命は、果実のように、わたしを木にして、どんどんと大きく実っていった。苺の大きさから、グレープフルーツの大きさへと。
この子どもに手足を付けてくださったのは、神さま。人間の複雑な身体の仕組みを、組み立ててくださったのも、神さま。わたしは、ただ吐いて、寝ていただけ。頭に十円ハゲを作って、脳貧血を起こして、ときどき倒れていただけ。
それから六年経って、あの壮絶な日々を思いだす勢いで、胃のなかみを空にしながら、そういうことを考えていた。からっぽになって、み腕のなかで休んでいることを。
太陽のひかりに照らされる、月みたいに。果実を実らせる、枝みたいに。ひかりを灯す、灯台みたいに。
なにも食べずにいると、だんだん精神のはたらきに占められていく感覚がする。じぶんの本質は、肉体ではなくて、内なるひとだという思いが、どんどん強くなっていく。この感覚は好きだけれど、でもこう弱ってばかりいては生活していけないので、こちらに生きているあいだは、うまくバランスを取らないといけない。
子どもはひとあし先に回復した。ママのお付きあいで吐いていたらしい彼は、ママが寝ているあいだに、果敢にも、お寿司をたべさせてもらったらしい。きょうもカレーうどんを美味しそうに食べていた。わたしは吐かないように、お粥をすこしずつ啜るだけだったけれど、ゆうがた、ベッドで寝ていたときに、「起きて、歩きなさい」といわれた気がして、ちょっとためらったあと、それに従った。
それから調子がよくなった。あしたはちゃんとご飯を食べられるとおもう。いえ、よなかにそっと起きだして、台所へなにか食べにいこうとおもう。わたしは癒やされました。彼がうたれた、傷によって。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?