『恋に落ちれば』 のこと
須賀敦子さんの評伝を読んでいたら、「キリストに夢中になる」という言葉がでてきた。あ、それだったか、と思った。わたしも、同じような思いを日本語に表そうとしていたのだった。
あるとき、Desperately in love with Christ といったようなことばを日本語にしたくて、いろいろ探していた。「無我夢中でキリストに恋してる」とか? そのときわたしが作ろうとしていたのは短歌であったし、音が良くて、いい感じに短い言葉が見つからなかった。
エリック・サティの曲で知っていた、ジュトゥヴというフランス語が近いかしら、と思った。「あなたが欲しい」ということばに込められた切実さと、親密さとが、すこし冒涜的であろうと、なんだか似ているような気がした。
結局わたしは、それを「キリストと恋に落ちる」というふうなことばにした。いくつか短歌を作り、それからそれをテーマに、短い話をいくつも書く構想を与えられた。どうまとまるのかは、最後まで分からなかった。初めての本を出してからの一年間、神さまはわたしに、歌のようなちいさな物語を十三こくださって、それがこの「恋に落ちれば」という、わたしの二冊目の本になった。
目次のように、短編の題名たちを、書き抜いてみたいとおもう。
「もし神さまがいるのなら」
「恋に落ちれば」
「見殺しには出来ない」
「水晶の夜・ひとが恋に落ちる瞬間」
「永遠の凪」
「逃げたいという願望」
「黄金の翼に乗って」
「揺らぐことない都」
「わたしのものではない戦争」
「その先にあるもの」
「この存在のすべて」
「あなたと共に生きる喜び」
この物語を本にしたいまも、わたしは恋に落ちたい、と思っている。もっと深くに、すべてを忘れて、夢中に。「落ちればよい、と神が言ふ わたしと恋に落ちればよい、と」という歌を作ったときからいままで、ずっと神さまはわたしを呼んでくださっている。
クリスチャンというのは、キリストに従うというのは、そういうことなんだと思う。キリストに夢中になること。キリストというひとりのひとに。教会でも、宗教でも、教団でも、組織でも、牧師でも、誰々さんでもなくて、ただキリストを見つめていること。
「もっと高くへ上っておいで。足を掬われてしまわないように。たとえ誰が脱落しようとも、あなただけは先へ進み続けないといけない。辛いときには思い出しなさい、あなたは退いて、主に委ねるだけで良いのだと。進み続けなさい、この祝福された苦しみの道を……」
と、作中で語ったひとがいた。彼のことばが、ずっとわたしのなかを行き巡っている。もっと高くへ、ただキリストだけを見つめていられるような、高いところへ。わたしはまだ道の途上にいる。
このちいさな本のなかに詰まっている、キリストの証しが、種になって、こころの畑に撒かれますように。どなたでも、ご希望の方がいらっしゃいましたら、お気軽にお問い合わせください。よろこんで送らせていただきます。
わたしのクリエイターページから、「クリエイターへのお問い合わせ」欄に、ご住所とお名前を送っていただけましたら、郵便局のスマートレターで発送いたします。使徒パウロではありませんが、わたしにとって、金銭をいただくことをせずにキリストをつたえるというのは、とてもとくべつな、うれしいことですので、費用はすべてこちらで負担させていただきます。お問い合わせをお待ちしています。
↓「クリエイターへの問い合わせ」の方法。わたしもこんなのがあるなんて知りませんでした。
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