めでたし、めでたしの幻想
めでたし、めでたしは幻想だと、ようやく気づいた。わかってはいた。ジェーン・オースティンの小説みたいに、結婚したら Happily ever after なのでもなければ、良い学校に入って就職することが、人生のゴールでもないことくらいは。
でも、たとえばキリストに救われたら、人生はめでたし、めでたしになるだろうか。いいえ、そうじゃありませんと、うちの教会の説教師たちは口を酸っぱくして言う。洗礼を受けたら、聖霊のバプテスマを受けたら、そこから試練がはじまるのですよと。
「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者をみな鞭打たれる」
それでもやっぱり、わたしのなかの弱い部分は、めでたし、めでたしを求めていた。どこかで苦しみは終わるんじゃないかって。もう辛い思いはしなくていいよと、キリストが言ってくれるんじゃないかって。
そうじゃないことくらい、昔のひとたちはとっくに知っていた。古い賛美歌や詩に、いくらでも出てくる。この道は、さいごまで上り坂だって。苦しみが終わる日は、砂州のむこう側に渡りきった日だって。こんなうただってあるじゃない。
「イエスが来たるまで、われら働かん。イエスが来たるまで、われら働かん」(We'll work till Jesus comes, we'll work till Jesus comes)
でも教わることと、理解することは違う。そういう悟りのひとつひとつを、じぶんのものにするために、これからも足掻いて、苦しんで、ゆだねて、自由になっていかなくちゃならない。古い賛美歌のなかにひそむ、信仰の境地の深さには、ときどきはっとさせられる。それがただの歌詞でなく、じぶんに与えられた啓示になる瞬間がある。そのためにキリストは、わたしを鍛えてらっしゃるのだ。
わたしのめでたし、めでたしは、こちら側にない。いま空から百億円が降ってきたって、きっと迷惑するだけ。「わたしを裕福にもせず、貧乏にもしないでください」と聖書に書いてあったけど、あれはなかなか悟りきった賢い言葉だ。いまさらミスター・ダーシーと結婚するわけにもいかないし、この世の考えるめでたし、めでたしに、特に魅力は感じない。
では霊的な鍛錬は? それが途絶えれば、わたしは投げだされてしまう。もうむり、と嘆くとき、わたしは聖霊にそっと持ちあげられて、「あなたと共に生きる喜び」のためなら、まだ進んでいけるかも、と思い直す。哀歌の三章が大好き、とこないだ友だちに書いた。それは嘆きながらも、たゆたうみたいに、あかるい歌をうたおうとする姿を、とても近しくおもうから。
そうやって、波にたゆたい、キリストのもとに、なんども打ち寄せられて、砕かれることが、生きる意味なんじゃないかしら。すくなくとも、そういう生き方だってあるだろう。水に揉まれながら、ふと、キリストの歓びを感じることがある。そういう瞬間には、この世では得ることのできない価値があるんじゃないかしら。
なんてことを、夜と霧や、神にもちいられた予言者の伝記を読みながら、考えていた。苦しみの意味について、考えさせられるような本たち。この世に、めでたし、めでたしはない。そう考えたら、ふと楽になった。
このままでは溺れてしまう、と思ったときに、わたしのために祈って! と助けを求めた友だちは、こう励ましてくれた。
「この人生は、わたしたちのものじゃない。この戦いは、わたしたちの戦いじゃない」
祈って、と頼んだあと、ふと浮かびあがるような感覚がした。あ、きっと彼女が祈ってくれてるんだ、とわかった。それからわたしは、海面に上がって、主の喜びを身にまとった。わたしは強いようでいて、弱い。そして弱いようでいて、強い。主の喜びが、わたしの力。
イエスの来られるまで、働きつづけるにしても、ほんとうはすべて、彼がやってくださることで、これはわたしの戦いではなくって。責任を負ったり、それをゆだねたり。じぶんの十字架を背負ったり、みあしのもとに重荷を投げ出したり。それは矛盾したことではないらしい。生きてみると、なんだかわかる。キリストが導いておられる、道のまんなかのバランス。
キリストと生きることは、めでたしめでたしであって、そうじゃなくもあって。つまりわたしの魂の大切な部分は、彼と共にあるけれど、この肉体はまだ地上にしばられていて。そうやって引き裂かれながら、生きているけれど、わたしには希望がある。いつか、わたしのすべてが、彼のものになるという希望が。
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