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あたらしいいのち (小説)


ひとつ前 わたしの軛 下

※ この小説は虚構作り話であって、実在の団体や
人物とはなんの関係もありません ※

  *

 無鉄砲にキリストに付き従ってから二年になるが、まだ後悔はしていない。田舎に住んではいるけれど、上に姉も兄も揃っているので、親だってぼくが何を信じようが構いやしなかった。それどころかお前がいつ身を持ち崩すかとひやひやしていた、発心したのなら結構々々と、わかるようなわからぬようなことを言っていた。大体キリスト教では発心なんて言葉聞いたことがない。父さんはぼくが東京の大学にいた頃、競馬にはまって仕送りをすべてすったことだの、ぼくを恨んだ女の子が実家まで押し寄せてきたことだのを何百回目に並び立てて、耶蘇教の説法にはそんなに効き目があるのかと感嘆していた。もう一度言うが、うちの家族の語彙は徳川時代で止まっていやしないか。

 「久米くんは本当に恵まれてる」

と教会の家主の真木さんに言われた。この人は育ちのいい中年の紳士だが、すこし考えこみすぎるところがある。こんな大きな屋敷に住んで、べつに働かなくたっていいような財産のある人がそう呼んでくださるなんて、ぼくとは一体なんだというのでしょう。

 「二十年以上前におれがクリスチャンになったときは、あとすこしで勘当されそうだった」

 とは言えこの人は、いま現在一族から勘当されているのである。本家の当主が勘当されるはずはないから絶縁というのが正解か。

 「ぼくは坊っちゃんでも跡継ぎでもありませんからね」

 日本人が少なく多国籍なこの教会には、お正月に神社にお参りして、盆には送り火をするような文脈を知るひとはあまりいない。お寺の国のほやほやクリスチャンであるぼくにとって、真木さんは年の離れた兄のようなひとだ。

 そういえばこの間の土曜日に、ぼくは近くの神社の境内で弁当をつかっていた。テイクアウトしたのはいいが、食べる場所まで考えていなかったのだ。目の前を一人また一人と途切れることなく参拝者が通っていく。思い詰めたようにずっと拝殿に手を合わせる妙齢の女のひとに、ぼくはドラマを感じて見入ってしまった。それから善男善女といったふうなお年寄りが、つかつかと参道を歩いてきては、道半ばで深々と礼をするから、いったいこのひとは拝殿まで来たらさぞかしと思いきや、すっと参道を外れて境内を去ってしまったのには驚いた。あれが遥拝というやつなのかもしれない。お手軽に信仰心を示せるというところか。

 拝殿の横の一段高くなっているところにまた別の小さな鳥居があって、そこから続く細い参道をいくつもの赤い旗が縁取っている。揺れる旗を光がちらちらと照らしているところを、ぼくはぼんやりと見ていた。観察しはじめてからもう十人は通りすぎていったけれど、あの小さなお社に手を合わせるひとはまだ見ていない。どうして神社のなかにまた社があるのが考えていたときに、そういえばこないだ真木さんの奥さんの八枝さんが、廃仏毀釈だの神仏分離だのなんだの話していたのを思いだした。先祖代々クリスチャンの彼女にとっては、仏教も神道もなんの陰りもなく、文化的に興味深い事柄に過ぎないらしい。そういうふうに言い表したのはぼくじゃない。まだお寺にも神社にも、身を切られるような苦痛を感じているらしい真木さんだった。自らの手で三百年の歴史を断って檀家を離れ、仏壇と神棚を始末したひとだから、彼なら決してぼくのように神社の境内でランチを食べる気にはならないことだろう。

 このひとたちは何に手を合わせているのかなとぼくは不思議に思った。わからないわけじゃない。ぼくにだって信心深いお祖母ちゃんがいて、小さいころお社に連れてこられては、タケミナカタノカミだとかなんとかに手を合わせさせられたものだった。だけれどぼくにはわからない。このひとたちだってきっとぼくと同じ程度に無知であるに違いない。ぼくはまだクリスチャンになって日が浅いけれど、ひとつわかったことがある。それは聖霊を受けたクリスチャンの生活というのは、時折神社で神頼みするような暮らしとはまったく違うことだ。毎週日曜日に教会に通えばそれで天国に行ける、と教えるところだってあるのかもしれないが、ぼくはそうは教わらなかったし、聖書をじぶんで読んだかぎりそんなことは書いていない。それじゃあ神社に手を合わせるのとそう変わりないじゃないか。ではどうすればいいのかぼくに説明しろと言われても、はっきりとはわからない。けれどイエスキリストと友達以上に親しくなるというのは、大切なんじゃないかと思う。

 ぼくが洗礼を受けたとき、牧師のパウロさんが口うるさく、聖霊を受けろ聖霊を受けるまで気を緩ませずに求め続けろ、と言った。あれのおかげでいまのぼくがある。聖霊がなかったら、ぼくはきっとすぐ元通りになってしまっていたことだろう。イエスキリストの霊が内側に宿ったことで、ぼくの発心ならぬ改心は頭でっかちでも付け焼き刃でもなくて、心の内側から溢れだすものとなった。

 だからぼくの変化は、一朝一夕に起こったものではなかった。誰もぼくにああしろこうしろと決めつけやしなかったし、聖人君子ぶろうともしなかった。ぼくのまわりには、その苦しみを隠さないで、全身全霊を尽くしてキリストの道を行く、等身大の姿を見せてくれる良いひとたちがいた。淡いオレンジの光がさす白みかげ石の参道を、ちいさな男の子がお母さんに連れられて歩いていく。これはかなり腕白な方だぞ、とその顔つきをみてぼくは思った。元気が有り余っているみたいだ。ちいさな男の子はお母さんに抱き上げられ、賽銭を投げた。地面に降りると、お母さんに教えられながら大きな仕草でぱんぱんと手を叩く。その姿に覚えがあった。

 けれどあの頃、ぼくは自分がなにを拝んでいるかわかっていなかった。ぼくは知らなかった、命を捨ててまでぼくを救いだし助けだしてくれる神がいることを。その神は神社には住んでいなかった。風のなかにも光のなかにも彼方の山にも宿っていて、なによりもぼくのなかに宿っている神である。イエスキリストは二千年前に天を離れ、人間となってぼくのために殺された。殺されるべきはぼくだったのに。イエスがぼくのために死んでくださったので、ぼくはもはや自分の罪から自由になった。イエスが死に打ち克たれたので、ぼくも神のうちに新たな命をいただいた。ぼくの罪がなんだったかは聞かない方がいい。レーティングがかかってしまうかもしれないから。


 **

 ひらりとカーテンを揺らし、ぼくは暖簾をわけるようにして、その小さな空間に顔を付き出した。病院特有の嫌な匂いが鼻につく。みだれた花柄の布団のうえに、お祖母ちゃんは骨のようになって伸びていた。窓がすこし開いていて、そこから新鮮な空気が入ってくる。ぼくはそれを妙なる芳香であるかのように吸いこんだ。枕元には諏訪大社のお札がうやうやしく掲げられている。神仏混合ということでいえば、お祖母ちゃんはその権化みたいなひとだった。お祖母ちゃんのなかの二大巨頭は諏訪大社と善光寺さんで、あとは地元の小さなお社もお稲荷さんもお寺もなにもかも一緒くたに、ありがたやありがたやであった。

 うちは農家も兼ねていて、両親は忙しかったから、このお祖母ちゃんはぼくをとにかくよく面倒見てくれた。仏壇に毎朝手を合わせること、お供え物をすること、お祖母ちゃんはぼくに仕込もうとした。まあとびきりやんちゃだったぼくがそれを大人しく聞く筈もなかった。ぼくは仏壇の上がどうなっているのか知りたくて登ってみたことがある。ただの箱だった。仏壇の上でしゃがみこんでいる小さなぼくを見つけたお祖母ちゃんは、ご先祖さまに申し訳ない、と狂乱のあまり台所からなにかを持ち出そうとして、母さんに必死に止められていた。うちは武士じゃないんだから、腹を切らなくちゃならない謂れはない筈だ。それでも愛想を尽かされなかったところに、ぼくの人生の不思議さがある。憎たらしい悪餓鬼ずら、といいながらも、お祖母ちゃんはぼくがお気に入りだった。ぼくも迷惑ばかりかけながらも、お祖母ちゃんが大好きだった。

 どうしてこの石に手を合わせるの? そこらへんに転がっている石となにが違うの? どうして木を拝むの? ぼくが工作で作ってきた作品じゃいけないの? とぼくはお祖母ちゃんを困らせて楽しんだ。そのうちにぼくはもっと哲学的な疑問を抱くようになったけれど、お祖母ちゃんでは相手にならなかった。お祖母ちゃんは、親から子へと教え継がれるしきたりの鎖の一端でしかない。お祖母ちゃんはそれに疑問を抱かないのだ。

 キリストに出会ったとき、ぼくはすべての答えを得た思いがした。小さい頃お祖母ちゃんを悩ませたあの質問たちの答えも。太陽が神なのでも、森が神なのでも、木彫りの彫刻が仏なのでもない。太陽を、森を、木を、何もない無から創り出した方がいて、そのひとが神なのだ。ぼくはもとから、この世界が偶然によって出来たとは信じがたいと思っていた。だってあんまりに上手く出来すぎている。東京駅だって辰野金吾が設計したんじゃないか。偶然で東京駅ひとつ作れないくせに、地球と銀河のすべてを作りだそうなんて時間を過信しすぎている。

 丘の上にある町が隠れることが出来ないように、ぼくの見いだした答えも潜めているのが難しかった。焦るなと言われた。お祖母ちゃんはその時でさえ、もう少しずつ死に向かって進んでいた。けれど下手な千のことばより、神の心に叶ったひとつの祈りの方が効を為す、とぼくは戒められていた。ある日機会が訪れた。お祖母ちゃんがぼくに、お前はなんだか変わったと言った。ぼくはひとつひとつ言葉を選びながら、イエスとぼくの関係について語った。お祖母ちゃんは煎茶をちびりちびりと飲みながら、ほぉけえと言い、お前がそんなに言うなら、そのイエスさまも偉い神さまずら、と言った。ぼくはそのときはご満悦だったけれどすぐに、八百万の神と幾多の仏を信奉するひとにとって「聞けイスラエルよ、神は主である、主はひとりである」という概念は理解できないものだということを、岩にぶち当たるようにして悟った。諏訪大社のお札はそのままに、お祖母ちゃんはイエスさまにも祈るようになった。どうしようもない孫が改心するほどのご利益ある神さまらしいと聞いたから。

 隣のベッドから咳き込む音が聞こえてくる。うすぼんやりした光が頬の落ちくぼんだ祖母の顔をさしていた。意識はもうずっと混濁している。そっとお祖母ちゃんの手を握った。うすく引き伸ばされた皮膚に包まれた指からは、かすかな意志を感じたが、意識はあるのかないのか。ことばをかけようにもことばが見つからない。意思の疎通が可能かもわからない祖母を前にして途方にくれながら、ぼくはいま遠く東京で、向こう側に渡りきったひとを送っている友人たちのことを思いだしていた。

 いつも祈ってくれるように、と教会で名前があげられていた、八枝さんの叔母さんは、数日前ついに亡くなった。遠くここ信州に嫁いできた八枝さんは、死に目には会えなかったけれど、亡くなるほんの少し前まで、実家に長く滞在していた。帰ってくると間もなく訃報を受け取った八枝さんは、その日の礼拝で証しをした。

「叔母は正直にいって、いつも安定した生き方をしているひとではありませんでした。とっても霊的なひとだけに戦いも多いひとで、時としてこの世の方に引きずられてしまったこともあったようなひとでした。けれどもイエスさまは忠実に毎度々々叔母のことを引きずり戻してくださいました」

「こちらに帰るまえに、もういちど叔母の病室を訪ねてきました。叔母は神々しい表情をしていました。そしてこちらではこれが最後になるわね、とわたしに言いました。まさかと打ち消すわたしに、叔母は言いました、留まれというならそれは自己中だと。自分はいつも誇れるような歩みをしてきたわけではない、けれどちゃんとイエスさまと和解して、イエスさまのもとに帰っていくのだと。あなたはそのまま覚悟を保ちつづけて、キリストに向かい走り続けなさい、いまわたしが見えているこの景色があなたにも見えるなら、決して後悔はしないから、と」

「ご存知かとはおもいますが、叔母の一人娘はもうずっと信仰から離れているのです。わたしの従姉妹である灯ちゃんのことだけが、叔母の心残りでした。灯がイエスさまのもとに帰ってくるのを見届けてからとも思ったけれど、これがみこころなのだから、と叔母は言いました。正直とっても荷が重いのですけれど、叔母はわたしに従姉妹を託して行きました。叔母がどれだけ彼女のために祈ってきたことか、その祈りのバトンをわたしに託して、叔母は悲しみも痛みもなく、ただひとびとが主の近くで安らいで待っているあちら側に旅立っていきました」

 礼拝が終わると、すぐに彼らは東京へ発った。お葬式は教会でするらしい。確信をもって死んだひとの、悲しみとともにどこか潔く晴ればれとしたその死に様が、ぼくは羨ましかった。先祖の教えのなかで死に行こうとしているお祖母ちゃんの枕元で、一族がみなクリスチャンだという八枝さんの軽やかさは、残酷なほどの違いを持ってぼくに迫った。坊っちゃんでも跡取りでもないけれど、ぼくは中途半端に、古いお寺の国の慣習と戦わざるをえない真木さんの側の人間だったと今更ながらに思い知った。

 ふいに祖母の息遣いが苦しげに乱れた。ぼくの手を握る祖母の指に、こんどは明らかに意志が込められていて、ナースコールを押そうとするぼくを押し留めようとした。長いあいだ経口での食事を取れていないので、もう言葉を口にする力はない。皺のなかにうずもれた目が、突然恐怖をたたえて見開かれた。どこか一点を見つめたまま、お祖母ちゃんはぼくの手にすがるようにして、生ぬるい皮膚をかぶった骨を押し付ける。

「イエスさまの手を取れば、死ぬことは決して怖くないんだよ」

 聞こえているかもわからぬ耳に向かい、ぼくは囁くように言った。反応はなかった。わからない、ぼくにはわからない。お祖母ちゃんはまた混沌とした意識のなかに沈んでいった。ここ数ヶ月ずっとそうであったように。いま目の前で、あきらかに死の恐怖を浮かべていた祖母を助けてあげることさえ、ぼくにはできない。ぼくはただその混濁のなかで、お祖母ちゃんが神と出会っていることだけを祈った。ぼくにはなにもできない、なにもできない。たったひとりで海峡の淵に立っているような気持ちになった。渡っていく祖母の手は、誰にとられているのか。「主の御名をよびもとめる者はみな救われる」という聖句が、ふと水の底から浮かび上がってきた。かすかに、ほんのかすかに祖母の乾いたうすい唇がちいさく動いたように感じられたから。ぼくは、信じます。


***

 白い線香の煙がとぐろのようにして昇っていく。噎せ込むようなこの匂い、金きらの坊さんの袈裟、見せびらかされる山盛りのフルーツたち。見かけ倒しに安普請な斎場で、ぼくは親族席の上から数えて七番目くらいの席に座っている。さっきからバカのひとつ覚えのようにして、坊さんの物憂げな読経と木魚に合わせぽこぽこ頭ばかり下げているので、ぼくは機械にでもなった気でいた。心なんてこもっていやしない。祖母が死んだとたん、ぼくは絡めとられるようにして、仏教としきたりの支配下となった。嫌という暇はなかった。お祖父ちゃんも父さんも母さんも、みなこれが当たり前だという顔をして、ぼくに人並みに振る舞うよう命じた。ぼくはまるでクリスチャンになったことなどないかのように、言われた通りの振る舞った。和を乱してはならない、という圧力をひしひしと感じた。ぼくとキリストの関係は、ここでは語る価値もないことだ。故人の長男の次男というのが、ぼくの役名である。お焼香の順番は七番目。

 延々と意味のわからぬ経を聞かされている。隣に座る兄の手には数珠がある。ぼくはそれだけは拒否した。お祖母ちゃんはもう骨だ。昨日、銀色の扉のなかに運びこまれるのを頭を下げて見送ったかと思ったら、あっけないように白い欠片になって戻ってきた。ぽろぽろとしていて箸で取り零してしまい、相方の姉にしっかりしなさいよと怒られた。あれが供養だと言われたけれど、もうぼくにはよくわからない。供養ってなんのことだろう。お祖母ちゃんにだって、魂はあったはずだ。あれはどこに行ったろう。菊の花がごでごでと悪趣味な祭壇に鎮座ましましているあれは、お祖母ちゃんを高温で焼いて残った破片と粉に過ぎないじゃないか。

 尽きもせずに参列者がお焼香に並ぶ。このひとたちみんなに食事を振る舞うというんだから驚いてしまう。あ、あれは高校の同級生の吉川だ。あいつは実家の自動車工場を嗣いで堅実にやっている。あれは町会の会長。退屈なので焼香するひとびとの顔ばかり眺めていたら、そのなかに別の文脈から出てきたひとが混じっていた。頭にすこし白の混じるすらりとした紳士、あれは真木さんだ。立ち居振舞いには堂々としたものがあったけれど、彼はただまっすぐを見つめていて、すこし悲壮なかんじがあった。きれいな百合の花を、透明なビニルに包んで、一輪抱えている。誰もそんなひとはいなかったので、人々の目線は彼に集まった。真木さんは自分の番が来ると、ぼくらの方に深く一礼をし、それから焼香台の脇に、ゆっくりとした仕草で花を捧げた。あとはしきたり通りに一歩下がって、ふたたびぼくらの方に頭を下げると、静かに去っていった。ぼくたちの目はずっと彼に惹き付けられていた。兄がちいさくあれは誰だろうと呟く。その瞬間ぼくの心は、明け方に鶏の声を聞くまえのペトロのように葛藤した。けれどぼくのなかの聖霊が勝利をおさめた。

「あのひとはぼくの友達で、旧家のご当主だけど、クリスチャンなんだ」

 ふーん、と兄はそれしか言わなかったけれど、興味惹かれたらしいのがわかった。

 ざわめく会食の席で、真木さんは目立たぬような端にいた。ぼくはおじさんたちにビールを注いでいるのがすこし恥ずかしかった。そっとビールをオレンジジュースに持ち変えて、ぼくは真木さんに近づいた。

大変だったねえらかったね

 真木さんが労るように言ってくれて、ぼくはすこし涙を覚えた。

「ぼくはみんなの期待通りに振る舞っているだけ」
「悪いことじゃないさ」
「真木さんとは正反対」
「おれは白か黒か選ばないといけない立場におかれていたから... さんざん人に悪く言われているから、もう何も気にならなくなっているんだ」

 遠慮ない話やひとびとの行き交う広い部屋で、ぼくはなんだか自分の家族のもとに来たような気分になった。血の繋がった家族ならここのそこかしこに散らばっているけれど、ぼくと同じ言葉を話すひとは、いまここに座っているこのおじさんだけだ。

「八枝とパウロがよろしくと」

 別に夫婦で来るほどのこともない間柄の葬儀だったが、真木さんはたぶんこういったことは出来るだけ、ひとりで背負い込もうとしているのだろう。八枝さんが前に言っていた、わたしはこんな状態のこんな家に嫁いできたけれど、面倒なことはみな真木が背負ってくれるので、普通の家に来たみたいな感覚で暮らしていると。ホームチャーチなんか開いている家を、普通と表せるのは余程のことだが、クリスチャンのなかで育った八枝さんからすれば、仏壇のある家よりそっちの方が普通なんだろう。

「はやくみんなに会いたいなあ」

 ぼくはぽつりと呟いた。

 「まだまだたくさんお仕事はあるみたいだぞ」

 こんなところでじっとしてちゃいけない、と真木さんにつつかれた。ぼくはオレンジジュースを真木さんのコップに注いでから、それを彼の前にあった手のついていないビールに持ち替えて、また酔っぱらったおじさん巡りを始めた。

 葬儀が終わって犬のように疲れきったぼくは、実家の畳のうえで夢をみた。黒い喪服を着た真木さんが、焼香の列に並んでいる。いつのまにか彼の手の百合の花はk血だらけのささくれた十字架にかわって、彼の背中にくくりつけられた。真木さんは十字架を背負って、長い焼香の列を進んでいる。彼が隠れようとしたぼくの方を向いたとき、それはもう真木さんではなかった。日本人の顔をしていたけれど、それがイエスキリストだと、ぼくにはわかった。キリストはぼくに言った。自分の十字架を背負ってわたしについてきなさいと。せっかくの葬式が台無しじゃ、とお祖父ちゃんが叫ぶ声と兄貴が止めようとする声とが響いた。親戚の醜くひきつる顔が、ぷつぷつと途切れるようにして目の前に写った。ぼくは立ち上がった。そして目を覚ましてみると、ぼくはあいも変わらず畳のうえで大の字になって伸びているのだった。

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