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ひとが恋に落ちる瞬間 (短編)



*このお話は作り話であり、実在の団体や人物とはなんら関係がありません*




 《I saw the moment you fall in love》

 
 白い病室のなかは静かで、後ろで祈っている牧師の呟き声と、夫の絶えゆくかすかな息遣いだけが、そこを満たしていた。

 枕元に映しだされた心拍は、次第に弱くなっていった。すぐに止まるわけでもなく、沈んでいく夕陽のようにゆっくりと、でも確実に、真木の心臓は動かなくなっていった。

 灰色の髪にふちどられた、血の気のない顔を、八枝はそっと撫でた。彼女のほそい指が痩せた頬をなんどめかに滑ったとき、彼はふしぎに目を開いた。そして微笑んだ、そう、八枝にむかって、この世のものとも思われぬ優しい目をして、微笑んだ。

 かすかに開かれた口に気づいて、耳を寄せると、ちいさな、かすれるような声で、真木がささやいた。

 「生きるのは キリスト 死ぬのは」 (*注)

 そのとき突然、彼女のなかに、十四年前このひとと恋に落ちた日の感覚がよみがえってきた。

 あれは真木がはじめて、八枝の家族が通う東京の教会を訪れた日のことだった。礼拝が終わったあと、父は彼を家に招待した。階下が医院になっている白い瀟洒な家で、八枝と父が急いで夕食を用意しているあいだ、真木はリビングのピアノを開けて、晩年のシューベルトを弾いていた。

 その晩のうちに信州の実家に帰らなくては、という真木を、父が特急の停まる駅まで送るといったとき、八枝は自分でも驚くような切実な声で「わたしも行きたい」と叫んだ。食卓の向こうでは、母がちらりと父の表情を窺っていた。

 父が運転する車のなかで、前に座る彼と話をしながらも、流れていく家々の灯りがどこまでも続けばいい、と八枝は思っていた。彼の声は優しいかたちをしていて、暗闇のなかでそれをそっと愛でていた。

 そのときふと、車のなかを流れる低い電流に気づいた。それはふたりのあいだに流れているのだった。ハンドルを握る父の存在は、忘れられていた。電気が流れているからには、ふたりは同じ気持ちなのに違いない、と思った。その日に会ったばかりの、ずっと年上のひとなのに。どんなひとなのかも、知らないというのに。

 駅について車を降りたとき、八枝は確かめるように聞いた。

 「またいらしてくださいます?」

 ほんの一瞬、ふたりの目が合った。それはあまりに力強くて、じぶんを改札のなかに、特急あずさの彼のとなりの席に吸いよせてしまうのではないか、と八枝は身震いしたほどだった。

 けれど真木がすぐそれを絶ち切った。黙って立っている彼女の父を意識しながら、彼はまるで電気など存在しないように、軽く、ほとんどぞんざいに言ったのだった。

 「また日本に戻ってくることがあれば」

 それから丁寧に、父のほうを向いてもてなしの礼を言うと、真木は駅のなかに消えた。いま自分の身におきたことを信じられずに立ちつくしている八枝の肩を、父が軽く叩いて、父娘は車に乗り込んだ。

 父は軽く上ずった声で、どうでもいいようなことを喋りつづけた。その隣で八枝は、それに調子を合わせようともせず、座席に残されたぬくもりを感じながら、ただ無言で外の景色を眺めていた。そんな娘に、ふと父が言った。

 「ひとが恋に落ちる瞬間を、見てしまったよ」

 それに抗議をしたのか、それとも黙殺したのか、もうよく覚えていない。あのとき彼はまだ四十になっておらず、八枝はまだ大学院生だった。けれどいま目の前で死にゆく夫は五十二になっていて、自分が三十七である。

 長い結婚生活のあいだに忘れていた、あの最初の愛が、そのとき八枝のなかにふたたび点されてしまった。そのあいだにもゆっくりと、夫の心臓は動かなくなっていくのである。

 「真木さん」

 呼び掛けにもう反応はなかった。取り乱すまい、取り乱すまい、と思いながらも、八枝はすがるように呼び掛けた。

 「和泉さん、和泉さん」

 もう疲れたよ、という表情をすべてが沈みゆくなかに浮かばせて、夫はものうげに目を開けると、下の名前を呼ばれたことに、うわべだけの不快感を示した。それが彼の最期だった。

 十二年間連れ添ったひとは、空気のように、厚い皮膚のようになっていた。それなのに、その死の直前に、八枝のこころの皮は剥げてしまった。魂のいま去りゆく夫に、ふたたび恋をしてしまった。それ以上に辛いことが、あるだろうか。

 ご臨終です、という言葉をききながら、八枝はこころのそばに狂気を感じていた。




 (*注 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」フィリピの手紙 1:21 より)




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