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かたぶくまでの月 (短編)
『来たれ、われ子羊の妻なる
花嫁を汝に見せん』
※この小説は虚構であって、実在の団体や人物とは何の関係もありません※
ふと痛みに襲われたときに、月を見ていたのは覚えている。築百年に近い屋敷の二階の雨戸を閉めようと、八枝が窓から身をせりだしたときだった。西にみえる暮れなずんだアルプスの山々に、しろい月がかかっていた。
そのうつくしい満月を見ながら、八枝が思い出していたのは、階下で仕事をしている夫の真木のことだった。彼が言っていたのだ、心にふれるような光景に、神からの愛を感じると。
青やいだ木々にふる霧雨に、火点し頃のうすぼんやりしたひつじ雲と、銀色のかそけき三日月に。
いつだったか、庭の草木にうずもれながら、園芸用グローブを手に填めて、端正な中年紳士の真木がそんなことを言っていた。
覚えのある痛みが、ぼんやりした思いを断ち切った。なにが起きているかは、はっきりとわかっていた。血とともにちいさなひとが出たこと、月を車窓にみながら暗い街を病院へ向かったこと、帰る車のなかで心のすぐそばに狂気を感じたこと。あの夜を思い出すと、そのすべてが憑きまとってはなれない。
*
八枝にとって実家に帰ることは、スカーレットのタラに帰るのに似ていた。こんどの帰省は、ただ休むことに費やされた。母の世話になってただ横になる日が続いた後、ようやく起きあがる気力のでてきた八枝の顔に、すこしずつ生気が戻ってくるのを、父母は安堵の息をつきながら見ていた。
「結婚してもう五年になるの」
昼餉のあと、やわらかな花柄のソファに身を横たえながら、八枝が母に言う。
「そうねえ。そんなになるわねえ」
透明なポットに、夜でもないのにカモミールティーを淹れて、母は向かいのソファに座した。八枝によく似た母は、鼻筋のとおった、目に光をたたえているひとで、いつも微笑がつきまとっている。
「なかなか出来もしないのに、出来てもだめになってしまうの。これでもう五年目でしょ、わたしなんだか疲れちゃった。今回は期待もしてなかったの、気付いてもいなかったし。こうして繰り返す苦しみって、すごく嫌いだわ。山を登ればいい、みたいな単純な目標がないんだもの」
「単純な目標がないわけじゃないでしょ。治療だって出来るわよ」
まあ、お茶でも飲みなさいな、と母に勧められ、八枝はしぶしぶクッションの上に身を起こして、熱くなったうすいカップに、申し訳程度にくちびるを添える。
「わからないの。そこまでするのが神さまのみこころなのか。そういう治療って、なんだか聖書的でないことを、男性がしなくちゃいけないんですって。彼はためらっているの」
語りながら、八枝の神経はどんどんと高ぶっていく。
「何のせいだとしても、別に構わないの。真木の年齢かもしれないし、わたしの体質かもしれないし、遺伝子が悪いのかもしれないし。でも神さまは胎を開き、胎を閉じられるお方だと、聖書に書いてあるでしょう。神様がわたしたちに子どもをお与えになろうと決められたなら、何も妨げることはできないとおもうの。だから、なんだかいたずらに、わたしだけ痛めつけられているような気がしてしまうの」
苦しいなら話すのはお止めなさい、と母がしずかに言う。けれどいちど堰を切った言葉は、流し尽くさなくて納まりがつかない。
「帰りたくないの。教会のひとたちの面前で、こんなプライベートな苦しみを味わうのは嫌なの。みんな知ってるんだもの、聞かれるんだもの。やさしいひとばかりだわ、でもデリカシーのあるひとばかりではないわ」
言いながら八枝は、胸元に感情がせりあがってくるのを覚え、弱々しい手つきで湯気の立つカモミールティーをサイドテーブルに下ろした。もう三十だというのに、声をあげて泣きじゃくりたいような、甘やかされた自己憐憫にかられそうになる。
「やあちゃん、いい言葉があるわ。Get your eyes off of people, and focus on Christ ⦅ひとびとから目を反らし、キリストを見つめよ⦆ っていうのよ。それが打ち克つための秘訣だわ」
ティーカップを手に、母の背筋はのびていて、優しいけれど甘えを許さぬ毅然としたものが、その声裏に潜んでいた。母から目を反らしながら、しずかで生暖かい涙が八枝の頬をこぼれた。頭で理解することと、心で理解することとは違う。頭では母の言葉が正しいことくらいわかっている。けれど心が、まだどうしても整わなかった。
*
「やあ、どうしてる?」
夜、床に着いた頃合いをみかねるように、心配を包み隠すような、さばけた物言いの電話がかかってくる。真木は妻を帰すことに、消極的だった。じぶんが自分の支配下を逃れていく感覚のしたあの夜以来、夫はいつになく優しかった。ほんとうは彼は自分の手で妻を看たかったのだが、諦めたかわりに頻繁な容態確認が来る。
「きょうは、すこし近所を散歩しました。昔よく母と行ったカフェがあるの」
「もう散歩できるくらい良いのかい、それはよかった」
その言葉は、どこか帰宅の催促に感じられてしまう。照明の消えた暗い部屋に、窓のそとだけがあかるい。八枝が黙ったのを埋めるように、真木が語りだす。
「立葵が天辺まで咲いたよ。松本も暑いね、今日は38度だった。夏は庭師なんて辞めてしまいたくなるよ」
「お体に気をつけて」
「八枝」
口先のみが動いているような、ただ表面をなぞるだけの会話を真木が止めた。八枝は逃げてしまいたい。
「八枝、愛してるよ」
かすかに震えながら響くその声を塞いで、八枝は平坦な声で、何事もないかのように言い返す。
「わたしも愛してますわ」
「汝の隣人を愛せよ、の愛じゃないのかね」
真木の声には自嘲が混じっている。
「周りの目ばかり気にして、おれはきみをちゃんと大切にしていなかった。我々から韻文が消えて、散文ばかりになってしまったのは、おれのせいだ」
「......わたし、子どもを産めないみたい」
話の流れを無視して、八枝は突然なによりも心に近いことを投げた。いまの彼女にとって重大なのは、いまも引き攣れるように痛むそのことだけだった。
「真木家なんて途絶えて結構」
言葉を途切られて、真木はすこし腹立たしげに言う。
「鷲尾は? 飯森は? うちだって途絶えてしまいますわ」
「きみが真木に嫁いできた時点で、どちらももう途絶えているんだよ」
それとも、と真木は皮肉そうに言う。それぞれの家に養子を出せるくらい産むつもりだったんですか?
「八枝、きみが錯乱しかけたあの夜に、祈っていて神さまに言われた言葉があるんだ」
『わたしがお前を愛しているように、
お前もお前の花嫁を大切に愛しなさい』
「おれはやけに日本人ぶろうとして、きみに言葉で伝えてこなかった。キリストから示されている愛の、何十分の一でもきみに示すことができていればよかったのに。八枝さん、いまからでもやり直させてほしい」
電話越しの空気がちいさく震えていた。八枝はほんの一瞬、あの夜から肌身離れることのない、骨を蝕むような虚ろさをわすれた。
「......どうぞ、やり直してくださいな」
ふふふ、と八枝は笑った。ハードルをあげられて、夫が戸惑っているのが手にとるようにわかる。
「八枝さん」
「はい」
「きみがそばにいないと、眠れなくて困っています」
「わたしって、まくらかなにかだったのでしょうか」
「ええ、やわらかくて良い匂いのする、上品な枕でした」
「まだまだ全然ダメですわ。それにあまり変な描写をしてはいけませんわ」
「いまのが変な描写だと思ったのなら、きみの方がおかしい」
「ほら、真木さんのいけないのは、こういうところですわ。これだから散文作家にしかなれないんだわ」
「作家に格上げしてくれてありがとう」
ふたりは同時に笑いを溢した。
「八枝、愛してるよ」
「どこを?」
八枝はとぼけたふりをして聞き返す。
「こういう掛け合いが出来るところ、まだ未熟で未来に溢れているところ。八枝さんの目も髪も手もすべて。変な描写をして欲しくないのなら、この辺でさえぎっておいてください」
「......家に帰っても、やさしいままでいてくれます?」
「おれはどうしても、人前で愛情表現をすることに躊躇いがあったんだ。でもホームチャーチなんか開いている我々の生活は、ほとんど人前で送られるじゃないか。神様に言われて反省しました。きみには嫌がられるかもしれないが、しかし良い牽制にはなるだろうとおもうよ」
「牽制?」
「さあ、聞かなかったことにしなさい。良い子はもうお休み」
「わたしも和泉さんのこと、愛してますわ」
八枝は眠そうな声で呟いた。
「おやすみ、うちのお嬢さん。せめてきみだけはぐっすり眠れますように」
*
しろい朝の光に目覚めると、枕元のスマホにはこう送られてきていた。
『やすらはで寝なましものをさ夜更けて
かたぶくまでの月を見しかな』
スマホを手に掴んだまま、八枝は寝巻きで部屋を出る。ひろい居間では、父が出勤前のひとときに、コーヒーをお伴に聖書を読んでいた。
「お父さん、わたし帰ろうとおもいます」
父は老眼鏡をあげて、娘を見定める。
「その格好で?」
「いえ......」
「どんな心境の変化だい? お母さんは、今度の八枝は相当長居しそうだと言っていたがね」
父の目はやさしい。長居して貰ったって良かったんだがねえ。父の言葉に、一人娘の八枝はこころの引き裂かれる思いがする。
「せっかく来たんだから、わたしもそう簡単には腰を上げないつもりだったけれど、さっき真木からこんなのが送られてきたんですもの」
「なになに、すわや浮気でもあるまいが」
父は冗談のような、冗談でないような口調で言う。八枝はそっと画面の和歌を差し出す。
「やすらはで寝なましものを...... へえ、八枝は百人一首に落ちたのか。ご主人の元に帰ろうという娘を、引き留めるわけにもいくまい」
電車は揺れるから気をつけてな、お金は出すからグリーン車を取りなさい、駅までお母さんに送って貰うように...... 父は畳み掛けるように指示を出すと、階下の医院に向かおうと立ち上がり、ふと振り向いて娘をみつめた。
「やあちゃん」
「なあに?」
「神さまがお前を祝福してくださいますように」
そう言うと父は階段をおりて、小児科の先生になってしまった。胸にこみあげる切なさを誤魔化そうとして、八枝はそのまま夫に電話をかけた。
「……もしもし、どうしたの?」
「真木さん、今宵はわたしも一緒に月をみてあげますわ」
「ありがとう。でもおれはそろそろぐっすり眠りたい」
平野の縁を抜けると、景色はだんだんと山深くなっていく。郷愁をさそうアナウンスとともにあずさを降りると、八枝はこころよく、ひさかたぶりの青い山々にはさまれた。
(end)
↓彼らのいままで