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わたしの軛 (改訂版) ①


三年まえに書いた話を、
書き直したり、削ったりしてみました。
キリストの軛を負うこと、傷を癒されること、
虚しくないものを探すこと、
聖霊のバプテスマを受けること、
仕えることとか、心を守ることとか。
あらけずりな話ですが、
お読みになってくださるかたが、
この小説のなかから、
キリストを掬いとってくださいますように。
全六回のうちの一回目です。






1


 「おれはおまえを宣教師に嫁がせたつもりでいる。衣食住に困らなければ、それで満足だと思え」

 一年まえ、八枝が結婚したとき、父はそう言った。彼女の夫は、温かい衣服や食べものにもこと欠きながら、福音を伝える宣教師には、ほど遠かった。彼女の嫁ぎ先は、相当な資産を有する、信州の旧家だったから。

 まだ寒い三月の日。にぶい色をした灰色の空は、いまが昼なのか夕暮れなのかも、はっきりせずに憂鬱である。この寒空のもと、八枝はいかめしい門のまえで、昨夜の風がのこしていった葉や枝を、掃きあつめていた。木綿のきものに久留米絣のはんてんをきた彼女は、その姑の姑の時代からやってきたみたいに、時代がかってみえた。とはいえ義両親はもう亡く、事情あって、煩雑なしきたりや、親戚付き合いの一切から自由だったけれど。

 乾いた冷たい空気のなかを、かしゃっかしゃっと音を立て、落ち葉を集めながら、八枝はふと綿雲のような不安にかられた。里の父に言わせれば、なんにも困っていないのに。八枝はかすかにその憂うつの正体を察していた。けれども宣教師に嫁がせたという父の手前、いまさら泣き言を言うわけにもいかなかった。

 はじめて来たとき、ここ松本の市街地にぽつんと残った広大な屋敷地と、銀行の頭取をしていた三代まえの当主が建てたという、古い大邸宅に驚いた。ここに住むようになって一年経つが、まだじぶんの家という気はしない。いつだって血の繋がらぬご先祖さまたちが、暗い廊下のどこかから、耶蘇教の若嫁を、非難がましい視線でにらんでいるのではないかと、怖い気がした。広すぎる玄関で、八枝は手早く箒とちりとりを片付けると、話し声がする玄関脇の洋間の方へ近づいた。

 ドア越しに伺うと、夫の真木と、その親友のパウロとが、議論しているらしかった。かすかに言い争う気配さえするのが気になって、八枝は台所で茶を淹れてくると、書斎の戸を叩いた。

 戦前の雰囲気のする書斎は、付設の洋館部分にあたっていて、事務所も兼ねた、二十畳の部屋だった。壁一面の本棚に、もう使っていない大理石のマントルピース、床は磨り減った堅木のヘリンボーンで、年期のはいったペルシャ絨毯の上に、ひいおじいさまの大きな机が据わっていた。揃いの背もたれがついた木製の回転椅子は、壊れるたびに直して使っている。

 八枝が入ってくると、男たちは口を閉ざして、こちらを振り向いた。真木は四十をふたつ超えた、端正な顔の、品の良いひとだった。古い緑のソファに腰かけた、体格のよいパウロは、しずかにかがやく温和な青い目のひとである。真木と同い年で、アメリカの大学の同級生だった。ルノワールがその親友を描いた絵に、彼にそっくりなひとがでてくるのを、八枝は画集で見つけたことがある。レストランゲという、不思議な名前のひとだったが、やさしい、引き寄せるような目をしていた。パウロは八枝を招く仕草をした。

 「無事にぼくも、日本に留まれるようになりました」

 パウロは穏やかに告げた。二年間学んだ日本語学校を、もうすぐ卒業しようというパウロのビザ問題は、ずっと彼らの懸案であり、祈りの課題だった。パウロは学校に通いながら、英語を教えるアルバイトをし、この屋敷でひらいているホームチャーチの牧師をしていた。有能な弁護士のおかげで、庭の設計や家作の管理をする真木の事務所で、パウロを雇うことができ、三年の就労ビザを得られたのだった。

 「ほんとうにおめでとうございます」

 このホームチャーチにかける、パウロと真木の熱意は、傍で見ている八枝がいちばん知っていた。道は作られると信じていた。けれどいまそれが、叶えられた祈りの形をとって、目の前に差し出されると、それは必然であったような、奇跡であったような、言いがたい思いがした。                   

 この仕事に、彼らはすべてを打ち込んでいるのだった。パウロは国を離れて、日本のひとたちにキリストを伝えるため、四十になってから、日本語を習得しだした。真木も旧家の当主のくせに、仏壇を捨て、寺との関係を絶ち、家で教会なんかを始めた。親戚やご近所から、真木がどれほど酷い呼ばれようをしていることか。先祖代々の財産も、真木は端から神に捧げきるつもりでいるらしかった。

 幕末の志士を思わせるような、キリストに対するふたりの決意の固さを、鋭い刃を見るような気持ちで、八枝は見ていた。けっしてそれを鈍らせるようなことをしてはならない。邪魔になってはならない。助けにならなくてはならない。身震いするような、気迫に押されるような、そんな気持ちで、八枝はふたりと共にいた。

 「ぼくも信じてはいましたがね、でももし牧師が帰国しなくてはならない羽目に陥ったら、この教会はどうなるんだろうって、悩んでましたよ。いい機会だから、考え直したほうがいいって、話してたんです。いまこの教会では、ぼくしか説教する人間がいないでしょう。これは不便ですよ。ぼくが風邪ひとつひかないから良いけれど」

 「おれに説教なんて出来るはずないだろう」
 ひと前に立つのが嫌いな真木は、苦々しく言った。

 「おまえが逃げているのが、俺の説得だけならいいけれど、神から逃げているのなら、覚悟したほうがいいぞ。おまえがどれだけ目立ちたくなかろうと、最終的には魚に呑み込まれてだって、ニネベに連れてかれるぞ」

 パウロはヨナ記を引用した。八枝は含み笑いをしながら、ふたりを眺めていた。

 「まあ、祈って考えてみろ。俺だって楽をしたいから、人に重責を押し付けようっていうんじゃないんだ。おまえなら出来ると感じなきゃ、こういうことは言わんさ。ちゃんと祈ってみること!」

 もの申したげな真木を封じこめるように、パウロは会話を閉めた。ひと前で語ることはほとんどないものの、真木のなかに、語るに値する、さまざまな信仰についての考えや良いものが詰まっているのを、八枝は知っていた。でも、これだけ目立つのが嫌いなひとが、ほんとうに説教なんてするかしらと、八枝は危ぶんだ。



 

2



 庭の草木はほとんど枯れていた。いまは庭の休閑期で、春の準備をするときである。あまり手のかからない植物を、その育つままに任せる庭だったが、それでも実は緻密な植物の配置や、開花期や高さなどのさまざまな計算が隠されていた。冬のあいだ、たまに積もった雪のせいで枯れた多年草は、刈り込まれて醜いくらいだった。枯れ姿の楽しめる冬よりももっと、早春のいまの庭には見所がなかった。真木はこれは庭の死であって、ここから復活して、春の訪れをひきたたせるのだと言った。庭の春が来るのはまだ先、少なくともあと一月は待たねばならなかった。

 「すこし休んで、お茶でも飲みません?」

 八枝は縁側から引き戸を開けて、庭先で園芸ばさみを使っている真木に声をかけた。淡い生成の片貝木綿のきものを着た八枝は、畳にひざをつくと、すべらすように盆を置いた。

 「ああ」

 真木はなにか考え込んでいるらしく、生返事をした。軍手を外し、枯れ草を払うと、縁側から室内に上がって、ぼおっといま自分が刈った草を眺めた。それから自分でも気付かずに、切れ長の目をひそめたり弛めたりしながら、ふと八枝のいれた茶に気づいて、なぜここに茶碗があるのだろうというふうに、一時逡巡した。

 真木は考え込むと、こちらの世界から乖離してしまう癖があった。そして長いときは数日も、まるで八枝などいないかのように、自分の殻に籠ってしまうのだった。そういうときに八枝は、ひとり取り残されたような、拒絶される思いがした。八枝は夫なんてどうでもいいと、自分だけ愉快に暮らす思い切りもなくて、自分が責められるような気がするのだった。真木は一度鬱を患ったことがあるので、それもまた心配の種だった。

 「そんなに説教をするのが嫌なら、やめたらいいじゃないですか」

 八枝はどこか尖ったふうに言った。内省的で思い詰めがちな夫が、これ以上の負担を背負うのは、彼の精神、ひいては彼女の生活に暗雲を及ぼしかねなかった。こころの平和を脅かされるような気がして、陽ざしのあたたかい縁側とは裏腹な、ひえびえと冴えたものが忍びこんでくるような気がした。

 「目立つのは嫌なんでしょう?」

 八枝のきりきりした言い方に、はっとしたらしい真木は、驚いた声で言った。

 「そう簡単なはなしじゃない」
 「では逃げていらっしゃるの?」

 真木はまじまじと八枝を見つめた。どうして妻は不機嫌なのだろう、というふうに。彼は妻よりたっぷり十五才も年上だったので、なにも考えずに、それに呑み込まれてしまいはしなかった。妻がときおり感情的になることも、若さのせいとして見逃せるだけの余裕はあった。そうでなかったら、ふたりの関係はもっと険しくなっていたことだろう。

 「逃げて、いるのかなあ」

 真木は空気を緩めるように、ゆっくりと息を吐きながら言った。

 「ひと前に立つのは嫌いだしね。たしかに出来ることなら、やらずに済ませたい」
 「説教をするのは、それほど責任が重いのですか? ほかのことならもうすべてやっているのに」

 八枝は、女は教会で教えたり、男の上に立ってはならないという、使徒パウロの教えに忠実に育てられたので、じぶんは説教しようなどと夢にも考えたことはなかった。八枝はそれが封建的だとも、ジェンダー差別だとも感じはしなかった。彼女にとって聖書に従うことは、そういった思想のかなた上を歩むことだった。夫を敬いなさい、という聖書のことばを、いつも心に刻んでいる八枝だったが、この地上においての役割が何であろうと、天国で神のまえに立つときは、男も女も等しいことを、いつもどこかで感じていた。

 「おれが怖いのは、たぶん、自分の語った言葉によって裁かれることだと思う。パウロはすごいなあ、といつも思っている」
 「あなただってすごいわ、仏壇を捨てたりしたんだもの」

 「すごくなんかないさ。おれは教えているうちに、自分の心が教えることばかりに向いて、自分とキリストの歩みが疎かになるのが怖いんだ。表に立たないうちなら、それも隠してもいられるが、説教をする人間の心が、一瞬でもキリストから乖離したなら、それは衆目にさらされてしまう」

 こむずかしい言葉ではあれど、八枝はその意味するところがわかった。真木はおのれのことを語っているようで、それは彼女の状態を的確に表していた。八枝は説教こそしないが、いつも通訳として、ひと前に立っていたのだ。正直すぎる真実に、八枝は目をそらしたくなって、話を夫に戻した。恐ろしいのは、彼がそのすべてを見抜いているだろうことだった。

 「でも、神さまはなんておっしゃってるんですか?」

 そう言葉を発してから、八枝は自分の偽善に消えてしまいたい思いがした。真木は顔に表れている八枝の煩悶を読んではいたものの、それ以上追及はしなかった。

 「ずっといつかは、とひそかに言われてはいたんだがね。まあ、安心してくれ。おれはヨナにはならないよ。タルシシュ行きの船に乗るほどのことはないさ。きみまで一緒に沈没させるわけにはいかないからね」

 真木は口では自分のことを軽く笑ったけれど、目では八枝を心配していた。子ども扱いされている気がして、八枝はすこし反抗したい思いで、目をそとの庭にむけた。死んでいるかのように、すべてが枯れきった庭は、はじめ見たときは、これが庭かと、見てはならないものを見せられた気がした。けれどいまは、波立つこころに食い込んでくるように、その整わない荒々しさがしっくりときた。




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