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プロジェクトは、この世界からのサイエンティストの消滅=普遍的な問いの消滅という形を持って完遂される

表象とは何か。いかなる機能を持つのか。

制御のための自己観察の必要性から生まれたもの、という説もあるが、それは「表象が無いと自己観察できない「私が認識している私」というシステム」を前提にしているだけである。

表象の「目的」なり「機能」なりを探究しようとする限り、どうあがいてもその目的を果たそうとしていたり機能を行使しようとしていたりする、「表象を表象している主体」を想定せざるをえない。

いまのところ、表象は我々の勝手な都合だ、と言うしかない。

あるいは、無限後退がなぜ悪い、というか、確かに無限に後退するが急速に「認識の強さ」が薄れるので数列の和のように一定範囲内に収束する、といった可能性について考えてみるべきなのかもしれない。

我々は我々を観察する「内なる目」を持つ。その時にサイエンティストは、内なる目があることを認識している主体は何かと問い続けるわけだが、ヨガやある種の神秘体験や宗教といったものはおそらく目指す方向が違う。

サイエンティストの発する問いは普遍的なのでいつまでも「見ている主体は何か」と問い続けるわけだが、私の現時点での一応の理解は、「問いの無限遡及の過程で徐々に「見られている対象」が増えてやがては世界全体を覆い尽くし、 その時「普遍的な問い」を発するサイエンティスト自体が世界から消滅する」というものである。

つまり「見る主体=「表象の機能は?」という普遍的な問いを発する主体=サイエンティスト」であり、見る主体の無限後退というプロジェクトは、この世界からのサイエンティストの消滅=普遍的な問いの消滅という形を持って完遂される、というのが一応の私の理解である。

個人としての人間は実際的な理由から「ほどほどのところ」で無限後退を投げ出してしまう。しかしサイエンスというプロセスは普遍を指向するので決して投げ出さない。「投げ出してしまう」のはあくまで個人の体験だが、全人類がそれを行えばサイエンスの担い手が消滅し、同時に普遍的な問いも消滅する。

しかもサイエンスは、徹底して「投げ出さない」ことによって「完全に投げ出す」のである。

我々は無限を「観念」することはできるが、「遂行」することはできないのだ。

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