クロストーク(混線)
今まで見た中では一番謙抑的で好感の持てる記事。
それはさておき、こういった問題の難しさを感じている。
基本的には、法と、社会が共有する倫理規範に反しない限りは、誰が何をしようと自由である。「ということは」その「誰かのなにがしかの行為」に対して称賛することも非難することも同様に自由である。そしてさらに、その称賛や非難に対して賛同することも反対意見を述べることも自由である。
義務教育を受けたほうがいいのか悪いのか、本当のところは誰にも分からない。仮に義務教育を受けないとして、家庭や地域社会やインターネット上のサービスの教育力がどれほど優れているのかも誰にもわからない。
一方、義務教育を受けるとして、誰が何を得て、誰が何を失うことになるのか分からない。
義務教育は受けたほうがよい、というのは、いわば過去の経験に基づく帰納的推論であり、「保守主義」である。帰納法がいつまでも成り立つかどうか、原理的な保証はない。我々は帰納法を帰納的に信じているだけである。
そして、人はなぜ他人の言動を非難するのか、というのも大きな謎である。単に不愉快で腹を立てているからなのか、自分が賛同しない言動を世の中から無くしたいのか、その言動が他人に影響を与えて、はては自分や自分を取り巻く環境を自分にとって望ましくない方向に変えてしまう可能性を無くしたいからなのか。それともその言動がその人自身を不幸にしてしまう可能性を読み取り、その人を救いたいと思うからなのか、それとも実のところ何の目的もなく、ただ思ったことが口に出てしまうだけなのか。
同様に、人はなぜ他人の言動を称賛するのか、ということもわからない。
そしていずれの場合も、理由や原因がどうであれ、それがその人にとって「良い」結果を招くのかどうかもわからない。そもそも何が良いか悪いかさえ分からないのだから。
子どもはまだ未熟な判断力しか持っていないのだから、親や周囲の大人がしっかり導いてやる義務がある、とも言われるが、「子どもをしっかり導ける」親や周囲の大人が世の中にどれだけ存在するかわからないし、一人ひとりの子どもにと対して、そういう人間が偶然自分の家庭やコミュニケーション範囲にいるとも限らない。
相手によっては「ひどい方向に導いてしまう」可能性だってある。さらに言えば、「ひどい方向に導いてしまう」親を非難する別の大人が、子どもを「さらにひどい方向に導いてしまう」可能性さえある。
一つ言えるのは、インターネット、とりわけSNSとユーザー参加型メディアが普及した現代においては、n☓nのコミュニケーションが当たり前になり、誰のどんな意見を誰がどのように受け取り、それがどのようにその人の思考や行動に影響を与えるのか、そして受け取った意見に対して誰にどのように自分の意見を伝えることになるのか、全く見通しが立たなくなってしまった、ということであろう。
インターネットが無かった時代にも、ひどい学校はあったしひどい親もいたし、ひどい大人もいたし、ひどい地域もあった。ついでに言えばひどい子どももいた。
学校でずいぶん理不尽な目にあった子どももいただろうし、子どもの言動を持ち上げて煽る大人もいただろうし、子どもを自分の価値観を証明するために「利用」する親もいただろうし、そういう子どもや大人に「それは違う」とおせっかいを焼く大人もいただろう。
逆に、学校に行かなくとも優れた大人との出会いによって、その後大きく成長した子どももいたであろう。
こういったことが何もかも、n☓nのコミュニケーションを通じて可視化、共有される時代になってしまったということが最も大きな変化であろう。
n☓nのコミュニケーション環境においてはメッセージが、「届くべき相手」のところに届くこともあれば、「届くべきでない相手」のところに届いてしまうことも多々ある。もちろんインターネット以前でも物理環境においてそのような「クロストーク(混線)」は存在していたわけだが、それが極めて大規模かつ高速、頻繁に生じるようになってしまったとは言えるであろう。