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MGMの無視された愉しみ

 11歳の少年トーマス・クレイトン・キャンベル・ジュニア Thomas Clayton Campbell Jr. を演じるリッキー・ネルソンRicky Nelson が、ベッドに寝て、エセル・バリモア Ethel Barrymore から受け取ったリボンを右人差し指に巻きつけてこめかみにあてる。目をぎゅっとつぶり、エセル・バリモア演じるヘイゼル・ペニコット Hazel Pennicott の名前を呟き、続けて1から7までカウントアップする。旋律はいよいよ高まり、カットが変わり、キャメラは左手前の方からベッドから起き上がるリッキー・ネルソンを捉える。耐えきれずというふうにベッドから出ると、まるで誘われるようにバルコニーの方へ歩き出す。その様子をキャメラはゆっくりパンしながら捉えるが、11歳の少年をやや斜め後ろから捉えるころには、開け放たれていたバルコニーから強い風が吹き込んでいて、カーテンが激しく揺れている様子が窺える。われわれは何事が起きてもおかしくはないという確信を抱かざるをえない。リッキー・ネルソンは何かに驚愕したかのように思わず後退りするが、彼が何を見たのかはわからないし、何も見てはいないのかも知れない。ここではそれは不問に付されるだろう。ゆっくり後退するところでカットが変わり、バルコニーに対して部屋の対角線の位置から少年を背後から捉えるロングのショットになる。そのまま彼は画面を横切るように後退り、やおら振り返る瞬間に再びカットが変わり、リッキー・ネルソンの臀部から上を捉えたやや寄り気味のショットになる。彼は、およそ180度振り返ってから90度戻り、何かに驚愕している。キャメラはここでもゆっくりパンして、鏡に映るトーマス・クレイトン・キャンベル・ジュニアを捉える。11歳だった少年の姿はそこになく、ファーリー・グレンジャー Farley Granger が立っているではないか。彼は一瞬にして大人になったというわけだ。鏡の中のファーリー・グレンジャーは2、3歩前進し思わず声を上げるが、この一言に限って11歳の少年の声が響くことになる。しかしすぐに大人になったトーマスの声(つまりグレンジャー自身の声)が聞こえてくるだろう。決して大げさな視覚効果ではなく、吹き込む風とベッドを出てからファーリー・グレンジャーを収めるまでの凝ったところの見受けられないキャメラワーク、ロージャ・ミクローシュ Miklós Rózsa の素晴らしい旋律が「シンデレラ」めいた出鱈目なファンタジーを成立させてしまう瞬間にわれわれは立ち会うことになる。

 ヴィンセント・ミネリVincente Minnelli について、われわれは、よく知っているつもりだったが、実はそうではなかったかも知れないと自問することとなる。実際、『バンド・ワゴン』(The Band Wagon, 1953)や『巴里のアメリカ人』(An American in Paris, 1951)といった作品と同じ真剣さで、ジョナサン・ローゼンバウム Jonathan Rosenbaum が「1950年代のMGMの無視された愉しみ(one of the great neglected pleasures of 1950s MGM)」という『三つの恋の物語』(The Story of Three Loves, 1953)の真ん中に位置する「マドモワゼル」(Mademoiselle, 1953)と題されたごく短いが充実した作品を語らねばならない。

 その後ファーリー・グレンジャーは、夜の公園でマドモワゼルと遭遇することになる。彼女は、11歳の彼・トーマスのフランス語家庭教師で、つい先ほど、互いに厳しい言葉で傷つけあったばかりだった。やはりミネリの作品である『巴里のアメリカ人』でスクリーンに登場したばかりのレスリー・キャロン Leslie Caron 演じるこの女家庭教師とファーリー・グレンジャーは、ロマンティックなやりとりを交わし、互いへの愛情を自覚することとなる。(ほとんど顔面だけが捉えられるレスリー・キャロンの驚くべき美しさを堪能されたい。)ここで、夜の公園というミネリの映画にあっては特権的な場所について触れておかねばなるまい。実際、『バンド・ワゴン』でフレッド・アステア Fred Astaire とシド・チャリシー Cyd Charisse が≪Dancing in the Dark≫を踊る一連のすばらしいという言葉では到底おさまりのつかない優雅で運動感に溢れたシーンが演じられた夜のセントラル・パーク Central Park を思い起こさずにいることは難しいし、『二日間の出会い』(The Clock, 1945)でジュディ・ガーランド Judy Garland とロバート・ウォーカー Robert Walker が互いへの愛情を告白する美しい夜の公園のシーンを思い起こさせずにはおかない。前者がミュージカル的なシークェンスではあるものの、後者や「マドモワゼル」における一連のシークェンスなどは、ひと組の男女がただ言葉を交わし合っているというだけのシーンにすぎないが、立ち上がったり座ったり、振り向いたりというような動作のリズムと切り返しだけで濃密なムードを高めている。ミネリはその意味でミュージカル映画のすばらしい撮り手である以前に、すばらしいメロドラマの撮り手であることを確認することができる。

 そしてとりもなおさず重要なのは、その単純さである。夜の公園のシークェンスもそうだし、冒頭で詳述したエセル・バリモアから受け取ったリボンによるシンデレラめいた魔法の画面上の処理についてもそうだが、映画は単純な画面の連鎖によってある説得力を持ったナラティブを達成しうる。これをさしあたり「普通さ」と呼んでおこう。この種の「普通さ」を信じられぬ人々は、題材の特異さであるとか、画面上の過剰な視覚効果によって「普通さ」を一掃しようとしてしまう。この「普通さ」が貫き通された「マドモワゼル」を、「MGMの無視された愉しみ」というのみならず、ミネリの他の作品に劣らぬ重要な作品のひとつとして堪能すべきだ。


 なお、ここでは触れていないが、ゴットフリート・ラインハルト Gottfried Reinhardt 監督による、『三つの恋の物語』のほか2編「嫉妬深い恋人」(The Jealous Lover, 1953)と「均衡」(Equilibrium, 1953)は、やや弱いものの前者は『赤い靴』(The Red Shoes, 1948)的作品のごく短いものとして(主演は同じくモイラ・シアラー Moira Shearer!)興味深いし、後者は、カーク・ダグラス Kirk Douglas のすばらしい運動神経とピア・アンジェリ Pier Angeli の美しさを充分に味わうことのできるスリリングな空中ブランコを題材にした作品で、いずれもスタアたちの魅力と絢爛豪華なMGMのスタイルの晩期のものとして興味深く観ることができる。

 日本では、『三つの恋の物語』は、TSUTAYA発掘良品シリーズから、かつて画質が決して良くないもののDVDがリリースされていたので、リンクを貼っておくこととする。

 また、「単純さ」あるいは「普通さ」が成立させるファンタジーという意味ではかつて「表象の節度」という言葉を捏造して触れたことがある。グレゴリー・ラ・カーヴァ Gregory La Cava 監督の『獨裁大統領』(Gabriel over the White House, 1933)についての短い記事がそれである。これもリンクを貼っておこうと思う。


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