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「アートの意図」(2023年2月)

●2月1日/1st Feb
これまでの社会の枠組みの中で優秀とされて活躍しているほど、その枠組みそのものの矛盾にはなかなか気付きにくい。その枠組みの外にいると簡単に理解できる矛盾であっても、枠組みの中心に近いほど何の矛盾もないように見えるのだから。

●2月2日/2nd Feb
超人と凡人という区別に囚われてまなざしを固定化すること自体が貧しい。「超人の凡人性」や「凡人の超人性」という観点に乏しいからだ。どんなものでも二項に分けて捉えることでひとまず整理はされるが、分けられたものは必ずその反対側を内包するのだから。

●2月2日/2nd Feb
「マルチカルチュアリズムもポストコロニアリズムも、西欧規準からの脱出がなされえてない次元での対立の設定であるため、価値逆転はなされていない。非西欧世界を尊重しよう、それは大事だという「善意」が表明されるにとどまる。つまり、自分の側の価値観は否定されていない、守られたままであるから、安全であるのだ。慈善の欺瞞と同じである。イリイチのラディカリズムは価値の存在基盤そのものをひっくり返すところにある。自分の存在基盤が転覆されるのだ。これは、生きる意味がなくなるのではない、真に生きる道が自分自身にたいして開かれてくる。」(『イバン・イリイチ』)
まさに、まなざしの革命ね。

●2月6日/6th Feb
今夜は満月。革命放送の配信日。今夜の革命放送は「価値の反転」について考えてみます。これまでにも個別には話してきたことですが、社会の中で、価値や主従関係が反転してしまっている事例はたくさんあります。それをイバン・イリイチという思想家の批判を補助線に少し考えてみます。

まなざしの革命放送 シーズン2
Vol.033 価値が反転していないか

満月の晩です。今夜は「反転」というキーワードで、社会の様々な物事を考えてみたいと思います。イバン・イリイチという思想家は社会のあらゆる制度は、次第に価値が反転すると指摘しましたが、今の社会はあらゆる物事が反転しています。それが再び戻ろうとする革命の時代について少し思うところを話してみます。

●2月8日/8th Feb
自分の問題も解決していないのに、他人の問題を解決できないのは言うまでもない。その一方で、他人の問題を解決しようとする中で、自分の問題が解決してしまうこともある。人は独りで成立しているのではなく、他人との関係の中で立ち現れるので当然だ。ただそれは麻薬のような依存性も同時に持っているので、しっかり目を見張っておかねばならない。自分の問題を解決するために、他者の問題を解決することを利用してはいけないのだ。

●2月9日/9th Feb
大阪公立大学のFacebookでも告知頂きました。2回目からは有料になりますが、全国の小中高では購読されていることが多いので、見かけたら是非お読み頂ければ嬉しいです。現代アートには興味はあるけど、見方がよく分からないという方々や、美術以外の教科をご担当される先生方にとって何かのヒントになれば幸いです。

●2月9日/9th Feb
「進化」と「退化」は対になっていて、ある部分が進化すれば、ある部分が退化する。それを引力と斥力の法則と置き換えることができるというのが生命表象学の基本的な理屈かと。
 100年前になるがアリス・ベイリーによると、「退化」は「主観的な生命の物質への包含」で、「進化」は「主観的な生命による形態の利用」となるのが興味深い。
平易にいうと、肉体や物質に囚われて利己的に生きることが退化で、自分の属するグループの解放と向上のために生きるのが進化となる。一方が己に何でも引きつけようとする引力で、他方が他者に渡そうとする斥力でもある。重要なのはどちらが良い悪いという価値判断は、ある大きなスケールから眺めた時に意味をなさないこと。単に役割の違いではあるのだが、我々人間のスケールから見ると自分はどちらに居るのかが問題になってしまうのは無理もない。

●2月9日/9th Feb
マネジメント学類のハナムラゼミの卒業生の一人が、ロッテルダムに赴任が決まったので壮行会を開く。2年ぶりにゼミの卒業生と会って色々と話をした。みんな少し大人になっていた。僕が話した何気ないことや、指導した文章の書き方が、みんなの仕事や思考に効いていることにも驚いた。厳しいゼミだったと思うが、他の学生には出来ない経験を与えたつもりだ。
海外へ旅立つ弟子にしてあげれることは少ないがプレゼントを一つ渡した。「靴磨きセット」だが、僕がデザインアレンジしてレイアウトした世界に一つしかないものだ。自分では買わないがもらったら嬉しいものを考えたつもりだが、喜んでもらえてよかった。元気に行ってきてくれ。また向こうで会おうぜ。

●2月10日/10th Feb
どうやら「まなざしの革命」の第1章「常識」の冒頭部分の一節丸々が、さる大学の入試に使われたようだ。前著「まなざしのデザイン」は内容が安全なので、試験問題に使いやすいが、今回の内容はヤバめだし、取り上げられたのも結構センシティブな部分なのだが入試問題に使うとは攻めた大学だと思う。今回はSNSの投稿でご報告頂いたが、自分の著作がどこで出題されるかは、実は著者にも知らされないし、ずっと後で連絡が来ることが多い。若い人が読むきっかけとして入試問題はいい入口になるのだろうか。受験生が興味持って読んでくれればいいなと。

●2月14日/14th Feb
欲と怒りは排他的な関係で、欲が出ている時は怒りはなく、怒りがある時には欲はない。同時にあるように見えても僅かながらのタイムラグがある。だが、欲のない状態と怒りのない状態は同時に起こりうる。その時の心の状態は明るい。大まかに言うとそういう整理か。

●2月15日/15th Feb
気がつけば地形模型ばかり作っているような。

●2月16日/16th Feb
教育新聞で連載中の「現代アートの見方を知れば世界の見方が変わる」が第2回、第3回の記事が上がっています。有料なので購読されておられる方以外はお読み頂けませんが、タイトルだけでもシェアしておきます。
第2回 「わからない」ことがわかる
第3回 なぜに着目する

●2月17日/17th Feb
何度も同じことを既に話したり伝えたりしていても、受け手側に聞く準備が出来ていなければ、その意味が理解できないことはよくある。人は基本的には人の話をちゃんと聞いておらず、聞いていたとしても自分の聞きたいように聞いていて、自分の理解の範囲から抜け出そうと努力する人は稀だ。
 先生と生徒との関係でも同じで、全く同じことを伝えていても、腑に落ちるタイミングというのは異なる。だから根気よく伝え続ける必要があるのだが、お互いに信頼関係が出来ていることが前提になる。

●2月17日/17th Feb
ひとまず文科省前に。

●2月17日/17th Feb
ありがたいことに、この数年携わってきた大きなプロジェクトの謝恩会的な場を設けて頂く。流石に上場企業の社長との会食にはマスク着けて行かざるを得ないか

●2月18日/18th Feb
ミッドタウンのデザインハブで「年鑑日本の空間デザイン」の刊行50周年記念展が開催されているので、少しお邪魔する。50年がずらりと並んで壮観な展示になっている。
 ハナムラが「霧はれて光きたる春」で日本空間デザイン大賞を頂いたのが2013年なので、あれからもう10年。もうそんなに経ったのかと思うと同時に、ほぼ自分のこれまで生きてきた時間スケールと一致していて感慨深いものがある上、
 あの時はいろんな方々に本当にお世話になったし、今でも気にかけて下さる方々もいる。こうして10年経ってまた訪れることが出来たことに心より感謝。事務局の鈴木さんに写真撮影もしてもらったけど、ちょっと恥ずかしい。

●2月18日/18th Feb
科学技術館をハックしたEASTEAST東京に。こちらは先ほどの空間デザイン協会などと同じデザイン・アート系でも、トライブとジェネレーションが随分と異なる。文化芸術領域におけるオーソリティとオルタナティブのせめぎあいが垣間見える。

●2月19日/19th Feb
 24のギャラリーが集まって三日間行われるアートフェアのEASTEAST。いつもお世話になっている岡山の能勢伊勢雄さんのお誘いでトークに参加して議論の流れを拝聴する。今回はレクチャーではなく作品の美術批評。
 今、金沢21世紀美術館で行われているハンドスキャナーで街をスキャンしてアーカイブする「Scan the World」というプロジェクト作品が今回の話題の中心。登壇者には能勢さん以外にアーティストの二人とキュレーター、司会の篠田ミルさんという構成。
 作品を巡って、能勢さんからいくつも論点が提示され、司会の篠田さんが合いの手としてスマートに整理した言葉で伝えられることで、作家以上に作品の意味と可能性が読み解かれていた。
 作家が自分の意図していない角度から問いを投げかけられることは、特に若いアーティストに対して大事なことで、大変刺激になったのではないかと思う。自分の表現の射程範囲が自覚できるようになるからだ。
 僕自身が気になったのは、この作品の持つ外部性を巡る議論。それは二つの意味で捉えられると僕は整理する。一つはこれまでの美術の文脈において作品がどのような外部性を持つのかという視点。もう一つは作品そのものが意図していない外部性がどのように現れるのかという視点。
 何かの問題意識や不自由さへの抵抗として表現が生まれるのだが、彼らの作品の中にそういう意図があまり感じられなかった。そうであれば作品を表現するモチベーションはどの辺りにあるのか。遊びとしてやっているということ以上の何かがあるのかどうかを掴みきれなかった。

議論に出てきたベッヒャー夫妻の一連の写真や、ストリートフォトとして出てきた表現は、これまでの視線の向け方や対象へのまなざしに対する批判が込められている。だがこの作品ではハンドスキャナーを使うことと、あるプロトコルに従うということ以上の何かの批判性を持ち得ているのかどうか。
 もう一方の作品そのものの外側に関しては、昨今の人工知能の画像自動生成やタグ付けの問題とリンクしてくる。インスタグラムでタグ付けされてずらりと上がってくるイメージ以上の何かを込めるのであれば、そこに意図的な選別のシステムが必要か、あるいは必要かどうかの吟味が必要だろう。そのあたりは非常に曖昧に設定されている感じがしたが、それが意図的なのかどうかが少し理解できなかった。
 スキャンの際のノイズで、期せずして拾ってしまうイメージが撹乱要素にはなるかもしれないが、それが狙われていたのかどうかと、外部性になり得るのかどうかは不明だ。
 この辺りが解消されていないので、路上観察学会や超芸術トマソン、僕がかつてワークショップ作品として表現していた都市風景のフィールドワーク的作品や、いくつかの建築的都市プロジェクトと何が異なるのかの差異が見えにくいように思える。
 後ほど、トークが終わって彼らにインタビューに行かれた鈴木沓子さんとディスカッションした中で聞いたのは、彼らはシチュオアシオニストに影響を受けているということ。それで僕自身が少しだけ腑に落ちた部分はあるが、しかし60年前の焼き直し以上の何かがあるのかはやはり不明だった。
 EASTEASTが終わり、夜に能勢さんと北山実優さんとに合流して、小一時間ほどバーでディスカッションした際に、そんな感想をぶつけたりした。実優さんとは3年ぶりで、能勢さんと一緒にお会い出来たのはとても嬉しい。その後終電で三島に移動だったので、少ししかお話できなかったが、山のシューレが戻ってきたようで至福の時間だった。
 お行儀の良いメインストリームに対して一見カオスのような様相に見えるEASTEAST。これをどのように読み解き、またその可能性と限界については思うところがあり、また機会を改めて自分なりに言語化してみたい。

●2月19日/19th Feb
 熱海の現場の視察と打ち合わせ。建物配置の全体計画だが、斜面地なので模型が必須。思った以上に急峻で、なおかつ崖条例が厳しいのでほとんど建てれる場所がないので知恵を絞る。皆さんが山を手入れし始めてから、少しずつ山が呼吸を取り戻しているようだ。

●2月19日/19th Feb
 今年の神奈川県公立高校の国語の入試問題に拙著「まなざしの革命」が使われたようだ。第1章の「常識」から。立教大学の入試の2次試験でも使われているらしいので、これで今年の現時点で大学と高校の両方で使って頂いたことになる。結構際どい箇所が使われていて、また恐々自分でも解いてみようとは思う。心より感謝。
https://www.kanaloco.jp/sites/default/files/2023-02/022国語問題用紙(全日制).pdf?fbclid=IwAR2dUsgzP4FWrnj0xrFCf9WwerzPndjr5WVAC3oi2Haktq-X2kp8oYBtzsU

●2月20日/20th Feb
 皆さま、誕生日のメッセージありがとうございます。皆さまそれぞれに個別で御礼の言葉はお返し出来ませんが、おひとりひとりのことをそれぞれ心の中で感謝しております。
 今夜は新月の晩で、奇しくも「まなざしの革命放送」の新エピソードがアップされる日でもあります。物事が新たに始まる新月の夜に、誕生日を迎えれたことに感謝いたします。
 今年はとうとう僕の父親が亡くなった年齢と同じ齢を迎えました。父は誕生日の34日後に亡くなりました故に、これまでの人生では本年を意識して生きてまいりましたが、どうやら僕の業が尽きるまでにはまだ少し先までありそうです。今世の業がいつ尽きるかはまだ分かりませんが、それまでは自らの道を歩むことに精進する心づもりでおります。

世の中はますます混迷を極めており、人の所業とは思えぬような凄惨な出来事に満ちております。これからますます多くの人が苦しみの中で立ち行かなくなり、失意の中で死を迎える局面が増えてくると予想されます。我々人間の問題だけではなく、他の生命にも多大な迷惑をかけているこの文明の行末が明るいものではないことは必然かも知れません。
 ただ、そんな中で新たに子どもたちが産まれてきて、同じように生きていくことになるのです。そのような次にやってくる人々に一体何を残せるのかは、今を生きる我々全員の課題であり、自分も当然その責務の一端を担わねばならない身であると覚悟せねばなりません。

自分の業と因果の流れの中で、どのようなことが可能なのかは分かりませんが、もしまだ少し時間が残されているのであれば、この先に心を汚さず智恵をもって物事に取り組んで行けるように努力して参りたいと思います。
 来年はこのような形でご挨拶出来るかどうかは分かりません。来年どころか我々は明日の我が身も分かりません。だからこそ、この世に産んでくれた両親と先祖に感謝し、これまで自らの命を支えてくれた多くの生命に感謝し、こうして心を寄せて下さる多くの方々にも感謝し、新たな齢を重ねることが出来たことに、心より感謝したいと思います。

生きとし生きるものが幸せでありますように。
2023年2月20日
ハナムラチカヒロ

●2月22日/22nd Feb
わりと可愛い模型になった。

●2月23日/23rd Feb
現代の科学が欠点だらけなのは、この宇宙の中にある無数の現象の中から、機器で計測したほんの僅かなものしか把握していない上、観測者の知覚の精度が上がらないまま考察していることに原因の一端があるのだろう。
 宗教者の一部は修行を通じて多少は心のレベルが上がっているので、通常は知覚し得ないものも感じているが、それでも体系化が未熟な場合は、どこに果てがあるかが理解されないまま知覚だけがされていることがある。
 なおかつそれも知覚のレベルが合わない他者とは共有できないので、非科学的と切り捨てられるか、オカルト的に盲信されるかに分かれてしまう。

●2月24日/24th Feb
月曜日に既にアップされてますが、「まなざしの革命放送」の新エピソードを再度共有します。今回は少しだけ理系的なエネルギーのお話。

まなざしの革命放送 シーズン2
Vol.034 エネルギーの生み出し方

ハナムラの誕生日でもある今宵は新月です。放送をお送りしているS地点で炎を前に、炎が町から消えてしまったこと、電気に依存した生活になったこと、エネルギーの自給自足、エネルギーの生み出し方が間違っている話など、炎とエネルギーについて少し考えてみます。

●2月25日/25th Feb
この宇宙の数多の生命の中でも、人間として生まれることがまず稀なことであり、さらに身体と心と、ある程度の時間的・経済的状況に恵まれていれば全ての条件が揃うことになる。
 そんな中で、正しい教えに出会う幸運に預かる人はほんの僅かで、もし運良く出会ったとしてもそれを素直に受け入れる確率はまずもって皆無だ。さらに己の心の方向を変える道に入る者はほとんどゼロに近い。何度も過ちを繰り返してしまう我々は、どれほど生命としての業に引きずられているのだろうか。

●2月26日/26th Feb
 かつては、よく考えればおかしな理屈だと気づくが、それがこっそりまかり通ってしまう社会ではあった。
 最近までは、少し考えればおかしな理屈だと分かるが、それがなぜかまかり通る社会だった。
 今は、どう考えてもおかしな理屈だと誰もが思うのに、それが堂々とまかり通る社会になった。

 徐々に理屈の穴は拡げられる。最初はほんの小さな些細なことから始まる。だがそれを一度許してしまうと、既成事実という穴が出来て次の突破は容易くなる。ちゃんと目を見開いていないと、正しさ、楽しさ、優しさ、善行為でコーティングされた奇妙な理屈が入り込んでくる。
 拙著「まなざしの革命」で具体的なことを書いていないのは、対象物に囚われると見誤るからだ。一つの物事や出来事にフォーカスすると、それが別のものに変わるともう安心してしまう。だが、基本的なフォーマットは同じだと理解して、是非今のさまざまな事象に当てはめて応用してもらえればと願う。
 巧妙に仕掛けられることに対する我々の武器は、怒りではなく智恵なのだ。掲げられた正当性や目先の楽しさ、心を打つような良い話、拳を振り上げたくなる愚かな主張に惑わされてはいけない。それがいずれも演出されていないとは言い切れないのだから。

●2月27日/27th Feb
 ハナムラが教育新聞で連載中の「現代アートの見方を知れば世界の見方が変わる」の第6回が掲載されました。この連載は美術の教科以外の先生に向けた連載で、現代アート作品の解説や紹介ではなく「見方」を解説しています。とはいえ具体的な作品がないとイメージしにくいので、毎回一つだけ作品写真をつけており、前回は真打のマルセル・デュシャン、今回はクリスチャン・ボルタンスキーを取り上げました。購読した方しかお読みいただけませんが、雰囲気だけでも伝わればと。

●2月28日/28th Feb
 我々の思考のほとんどは情報からの推測に過ぎず、直接的な感覚として体験したことに基づいているものはほんのわずかだ。体験したと思い込んでいることですら、その多くは脳内の情報からの推測が入っており、純粋な感覚ではない。言葉を使うことがもう既に体験を曇らせているので、言葉には慎重に注意を払う必要があるのだろう。

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