病気との闘い⑲復学への強い想い
みなさん、こんにちは!こんばんは!おはよう!
ふたつの痛みの病に侵され、痛みに呪われたflutist_umakoです。
前回の「病気との闘い」は、突発的に起きた事に対応しきれず、ちょっと愚痴っぽくなっちゃいまして申し訳ございませんでした。
今日は、今までの様に発症から確定診断などの私の辿ってきた道について、本来の「病気との闘い」に戻ってお話したいと思います。
今日のテーマは、大学への復学をするか否か、自分の道を決めた先に待っていた高くて厚い壁についてです。
ざっくり2部構成で語ります。
本日は前編です。
A医師との出会い・治療
病院を転々としてきた私は、療養のため実家のある県の県立病院でA医師のお世話になることになりました。
それまでも県内の病院にいたのですが、リハビリ目的で入院したものの、痛みが強すぎてリハビリできない、疼痛管理のできる麻酔科・ペインクリニック等の診療科がない事から、
『今後の事も見据えて・・・』
ということで、A医師のいる県内のペインクリニック、その他各科がある中核病院に転院することとなりました。
そこでの治療も今まで通ってきた道に倣えの様なものでしたが、私の状態は芳しくなく寝たきり状態でした。
その間私は発作を繰り返したり、オピオイドの過剰摂取からかショック状態に陥り意識不明になったこともありました。
2006年6月5日に転院し、2007年3月を過ぎるまで私は試行錯誤を繰り返す治療を行ってきました。
しかし、廃用症候群による筋力低下や拘縮に陥っていることは自分で分かりつつ、痛みがネックになってしまいリハビリはこの間していきませんでした。
今思うとあの頃の私はもしかしたらどこか甘えの様なものがあったのかもしれません。
しかしそれは今となっては、本当に痛かったのかもしれないし、甘えていたのかもしれない、そう、今となっては分かりません。
寝たきりの私に突き付けられた選択肢
それは、常に天井ばかり見ていた私にはショックで胸を突かれる様な事実でした。
というのは、大学4年生の外部実習の途中でドロップアウトした私だからこそ急を要する決断でした。
その時点での私は2回あるうちの1回目の外部実習の3分の2は終了していましたが、100%ではないため認められず、私はもう一度1年に2回の外部実習をしなくてはいけないらしい、という辺から確か私の母がゆっくりと話を始めたように記憶しています。
そして話が確信に近づくにつれて私の心臓はドキドキと鼓動を速め始めました。
母は数日前に私のアドバイザーの教授から連絡をいただいた様子でした。
その決断を急がなければ、そう3月のうちに大学に戻らなければ、実習の予定が立てられない、つまり私は退学になるという話だったのでした。
この後私は母にまくし立てるまくし立てる様に、
「お母さん、今すぐ車いすを持ってきて!!」
と、およそ3年間寝たきり生活だった私は言いました。
それまで言語聴覚士を諦めた訳ではないけれど、どこか甘えた考えだった。
止まることのない現実という波が、私の足を沖へ持って行くかの様に強い波へと変わっていきました。
母からの話はそれを目の当たりにしました。
そして、私は迷うことなく「復学」を選択しました。
自分では何一つできないくせに、大学も言語聴覚士も諦めたくなかった。
両親が休学中も学費を払っていてくれたことなど、これから卒業するまでにいくらかかることなど考えもせず。
今思う。
私はお気楽だったし、何にも未来予想図がなかったと。
両親は私が復学し言語聴覚士の資格を取ったとしても働くことなど不可能だとこの時すでに気づいていただろう。
しかし、両親もA医師も、
「目標ができることはいいことだ」
と応援してくれた。
私は幸せ者だ。
終わりに
しかし、ここまで読んでくれている人は思うだろう。
「寝たきりだった人がどうやって22歳の同級生相手に生活していくの?」
そう、だから私は甘かったのだ。
だから、A医師の病院を退院して大学に形は復学しても大学側との闘いが待っていた。
決して悪意のある反対ではなく、薬でぼやーっとしていて、車いすをこぐ事さえできず母に押してもらっていたのに、100人の学生と一緒にやっていけるのか?という心配だったのだろうと思う。
確かに私が大学側の人間であれば先月まで3年間ほどの寝たきり生活をしていたが復学したいからお願いします、と言われたら、いくら学費を払ったとしても反対するだろう。
後編は私が形だけではなく、教授陣に認められて復学するまでのお話をしたいと思います。