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病気との闘い⑮~それぞれの闘い~

みなさん、こんにちは!こんばんは!おはよう!


ふたつの痛みの病に侵され、痛みに呪われたflutist‗umakoです。


前回の病気の闘いシリーズでは、私の実習が追い付かない=みんなから置いて行かれてしまい留年することの恐怖についてお話ししました。

さてさて、両下肢のみだった痛みが全身に広がり、しかもそれがガラスの破片の上をゴロゴロしている、有刺鉄線が身体中に巻き付いているそんな身体中の激痛に見舞われるようになった私。


当時まだ線維筋痛症という病気が今ほど知られていなかったため、麻酔科・ペインクリニックが専門だったE医師も私の中で何が起こっているか分かりませんでした。


そんな闇の中を歩いているような私たち、特に両親とE医師はあの手この手を尽くしてくれました。


そんなみんなの闘いだったあの頃の話をしたいと思います。




私の闘い


私はオピオイドを使うようになったものの激痛は収まらずその量も今では信じられないほど増えていきました。


今でも「多すぎる」と言われているオピオイドを今の倍近く飲んでいたのですから。


2004年の11月23日。勤労感謝の日。


私は朝からひどいけいれんを起こしました。


祝日でしたがE医師も駆けつけてくれたそうです。


けいれんは収まったものの、私の痛みは変わらない。


ツラい、死んじゃったほうがましかも、なんて本気ではなかったけれど頭をよぎった。


その後、「持続皮下注射」を始めた。



持続皮下注射とは、私の場合は、

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この様に胸の上というか、鎖骨の辺に刺します。そして、

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そうそうまさにこのタイプを使ってました!!

え!? 説明しろ?・・・ですよね。


この透明なケースの中にしぼんだ風船が入っています。


その中にオピオイドを入れて風船を膨らまし、風船がしぼんでいく力を借りて少しずつ薬剤が身体に吸収されていくという訳です。

なんだか今では、

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こんなシリンジポン部の携帯版のようなタイプもあるそうです。


へーっ!! て感じです。


しかしこれ、風船ポンプの先には当たり前ですが針が身体に入っているわけで、移動の際はネットに入れて首から下げていました。



しかし昔から肌の弱かった私は、針を刺す場所がプニプニしてしまって一向に良くなりませんでした。


普通の方ならプニプニしたとしても別の場所(反対側とか)に刺しているうちによくなるんだそうですが、残念ながらこの治療は年が明けた頃にはさす場所がなくなり中止になりました。


結局また手詰まりになり、元に戻るという治療の繰り返しで、いつまでも正解のないクイズにチャレンジしている様でした。


私は追い詰められました。



両親の闘い


父は私が4年生になった年に定年退職をしましたが、いろいろと任されることが多いようで、看護休暇願いを出した母が栃木へ来てくれ、べったりだったかなぁと思っていました。


しかし、母の日記を拝借すると、父ももちろんよく来てくれていたし、すっかり忘れてしまっていましたが、同じ栃木に住んでいた叔母もガンと闘いながらも顔を見せてくれたり、地元山梨のともだちが来てくれていたことを知り、



「本当にみんな親身になってくれて...私だけの闘いじゃないんだ」



と思わされます。


また父だけでなく母も栃木と山梨の行ったり来たりは本当に大変だっただろうと、今になったから深まる感謝の念でいっぱいです。



少し話はそれますが、父は60歳の定年まで働き、地元の小学校の校長として退職しました。


しかし母は、ちょうどへき地勤務だったため、気の知れた先生のいない中での看護休暇願いや、のちにそのまま私のために退職を決意してくれたのですが、気を使ったり肩身の狭い思いをしたのではないかといろいろ考えてしまいます。


公務員の教員の場合、最低でも最後の年度は地元の小中学校で働き退職するということがいわゆるスタンダードです。


しかし、私のせいで母は地元の知っている顔の多い学校で最後を迎えさせてあげることができませんでした。


当時の赴任先に問題があったわけではありませんが、母だって昔から頭の片隅に「退職は地元の学校で」と思っていたはずです。


せっかく何十年と働いた母を描いていた退職にしてあげられなかったことを考えると、毎回胸が締め付けられ、目頭が熱くなります。


両親も栃木との行ったり来たりや、いろんな気持ちに追い詰められたと思います。




E医師の闘い


E医師も急に現れた私の謎の症状、病気に翻弄されたと思います。


先ほども書きましたが、私のオピオイドの量は今と比べるととても多かったです。


それにステロイドときたものだから両親が心配しE医師を問い詰めたそうですが、



「僕も綱渡りをしている状態なんですよね」



と、E医師自身も恐怖を感じながら治療をしていたそうです。


また、CRPSの確定診断はつきましたが、私に現れた全身症状の病名が謎だったため、E医師は休みの日は私のカルテや画像を持ち県内だけでなく、東京や神奈川の病院にまで足を延ばし、



「この人の病気は何であるのか?」


「この病気の治療法はどうすればいいのか?」



と、いろんなところに頭を下げに行ってくれました。


これもまた感謝ですね


しかし、E医師もまた、追い詰められていたと思います。




終わりに


今回の記事は当時は気づかなかったことがいろいろと見えたり感じることができました。


また、E医師、両親、家族、ともだちのありがたみをとても感じる事ができました。


みんなそれぞれ闘っていたんですね!


しかし、E医師の闘いのおかげで当時の線維筋痛症のパイオニアと呼ばれていたS病院の難病治療センターの先生のお墨付きで、私が線維筋痛症だということが分かりました。


しかし、E医師が入院を懇願したらしいのですが、



「重症例は研究結果に悪影響を及ぼすから」



というふざけた理由で、入院・治療を拒まれました。


ということで、E医師のおかげで重度の線維筋痛症という確定診断がつきました。



そうそう、当時両親がいろんな健康食品、いわゆるサプリメントのようなものをとっかえひっかえ持ってきて飲んでいたなぁなんてことも思い出しました。


その中には、当時「笑っていいとも!」の罰ゲームで使われていた"ノニジュース"なる黒くてドロッとした液体もありました。


あれは本当に罰ゲームそのもので、飲んでいくうちに少しは慣れたものの、口の中の刺激も痛みに変わるということで、土下座ものでやめさせてもらったサプリメントのひとつでしたね(笑)。



さて次回は...私が今まで行った治療の中で最も後悔しているもののお話でもしましょうかね♪

つたない記事ですが、サポートしていただくと俄然やる気が出ます!!🙂🎶 私の"やる気スイッチ"も入りますので、あなたの心に響いたらぜひよろしくお願いします。