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読書事情
暇さえあれば本を読んでいる。
暇になれば昼だろうが夜だろうがカフェに入り浸って本を読む。電車移動や待ち時間も当然本を読んでいる。出先で本を読み終わってしまいそうなら次に読む本も欠かさず持って行く。
今や薬と同じくらい、読みかけの本は絶対に切らしたくない。
「ブクログ」というアプリで読書記録をつけるようにした。画像は、去年の12月から読んだ本。再読したものもどんどん記録している。
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新宿で時間があれば間違いなく紀伊國屋書店に寄るのだが、「その後の予定なんて気にせず好きなだけ本を買いたい!」と思い立ち、新宿紀伊國屋豪遊の日を設けた。
1時間半はうろうろして、この5冊に決めた。
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「歪曲済アイラービュ」(住野よる)
「令和元年の人生ゲーム」(麻布競馬場)
「みんなを嫌いマン」(献鹿狸太朗)
「まず良識をみじん切りにします」(浅倉秋成)
「セルフィの死」(本谷有希子)
私は“積ん読”(つんどく)が好きではない。本に限らないが本は特に、買ったものが使われずに放置されている状態が我慢できない。
なのでこの5冊は必ず読むつもりだし読んでいるのだが、1冊読むごとに再読本を挟みたくなる。
なんというか、みんなあんまり明るくないからだ。
この5冊を立て続けに読んだらメンタルが持たなさそうなので、箸休め的に雰囲気をがらっと変えられる本、変えられることが分かっている再読本と交互に読んでいる。
中でも「みんなを嫌いマン」は凄かった。メンタルに来るという意味で。もはや笑えて来るほど救いのない、自分史上ぶっちぎりの鬱本だった。
この後に読むもの、というか読めるものと言ったら、「時をかけるゆとり」(朝井リョウ)以外に考えられなかった。これで4周目になる当エッセイの、こたつのような安心感と笑いにぬくぬくと温めてもらわなければ、もう活字を読むことが怖くなりそうだった。
最近の一番のヒットは「令和元年の人生ゲーム」だった。1ページ目で、「絶対に夫も好きだ」と確信した。タイパの時代が反映されているのだろうか、面白くなるのが滅茶苦茶早い。
「一刻も早く読み終わって夫に貸さなければ」と言ったら、夫は私の読了を待たずに自分の分を買った。うちには「令和元年の人生ゲーム」が2冊ある。
余談だが、高橋弘樹の「1秒でつかむ」は夫婦それぞれ紙版とkindle版を両方持っているので、合わせるとうちに4冊あることになる。夫は今でもよく手伝いに行く大学のゼミに、もう1冊買って贈っていた。夫婦共々ファン過ぎて引く。
ロイヤルホストやコメダ珈琲で、同じ「令和元年の人生ゲーム」の同じ場所を二人で読みながら語り合うのが楽しい。ついつい「そういえば思い出したんだけど……」と、本を置いて話し込むこともしばしばで、この本を肴にどれだけ語り尽くしたか分からない。
ただし主にその内容は、「こういう人間にはなりたくないよね」という悪口なので、「ロイヤルホストやコメダ珈琲」といった、周囲とゆとりがあって個室感のある場所がいい。
一度朝マックをしながらこの本で語ろうとしたが周囲との距離が近く、たまたま静かな店舗でもあったので、「こうはなりたくないよね」トークで盛り上がることは憚られて大人しく退店した。
自分の本のチョイスがマンネリ化してきたところに、先日夫は「PRIZE」(村山由佳)を買ってきて、「先に読んでいいよ」と渡してきた。自分では選ばなかったであろう本だが面白く、「作家という生き物」について考えるきっかけになっている。まだ半分ほどだが、他の作家がこの本をどのように読むのかも知りたい。
「令和元年の人生ゲーム」の作者、麻布競馬場のいわゆる“タワマン文学”「この部屋から東京タワーは永遠に見えない」も読了したので夫に渡したら、私の数倍楽しそうに読んでゲラゲラ笑っていた。私はこの本を読んで気分が暗くなってしまったのだが、夫に“おもしろポイント”を聞くことで新しい楽しみ方ができるかもしれない。