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上野公園に、後ろめたさを置いてきた

長男が生まれるちょっと前から、2歳になる直前くらいまで、荒川区に住んでいた。当時は家に車もないし自転車もないので、遊びに出かけると言ってもベビーカーで歩いていける範囲に行くか、タクシーで移動していた。電車は極力避けていた。ベビーカーで電車に乗るととんでもなく疲れるからだ。

その頃はよく、タクシーで上野動物園に行った。家からそこそこ近く、大人分の入園料しかかからない。子連れが多いので周りに気を使わなくて済む。何より、子どもは広々とした敷地を遠慮なく走り回ることができる。おまけに夜は疲れてぐっすり寝てくれる。

親が小さい子どもを動物園に連れていく理由は一つだろう。「いろいろな動物を見せたい」だ。もっと言うと「不思議なものを見るような表情で動物を見る子どもの姿を見たい」ということではないだろうか。

動物園にいる親子というと、動物を指差して「ぞうさーん」「ぞうさんだね~」「おしゃるしゃん」「おさるさんだね」と言っているシーンが思い浮かぶ。それは自分の記憶なのか、ドラマか何かで目にした作られたシーンなのか区別がつかないほど、当たり前のシーンに思える。

当時の自分も、そういう典型的なことを求めて動物園に行った。だが、そういうシーンは不思議と思い出せない。おそらくそんなやりとりもあったのだろうと思うが、具体的なシーンが浮かんでこない。浮かんでくるのは別の光景だ。

動物園の出入口のそばに、コインを入れて遊べる遊具がたくさんあるコーナーがあった。昔、デパートとかスーパーの屋上にあったようなやつだ。うちの場合は、動物を見るときよりもその乗り物を見たときのほうが目が輝いていた。何かのキャラクターや動物の遊具に乗って、上がったり下がったりまわったり揺れたり。その姿の方がはっきりと思い出せる。これだったらいつも行くスーパーでも同じじゃないかと思ったものだ。


いつだって親は、自分の中のあるべき理想、脳内の理想、どこかで目にした理想を、子供に投影している。

ほら、パンダさんだよ。
ほら、ミッキーだよ。
ほら、花火だよ。
ほら、ほら、ほら、ほら、ほら。

そうやっていろんなところに連れていって「ほら見てごらん」という行為は、「自分が作り上げた、子どもが喜ぶであろうと思われる理想を見せること」だ。その行為によって、理想に満たない自分を、ちゃんと子育てをできていないんじゃないかという後ろめたい気持ちを、肯定しようとしていたんじゃないだろうかという気がする。

特に第1子は、母親と子どもの2人きりの時間が多い。真面目に子どもと1対1でいると、そのうち行き詰まってくる。理想の母親像、理想の育児のありかた、そして理想の子供像まで脳内で作り上げてしまいそれに縛られるからだ。そしてその妄想イメージにコントロールされ、母子ともどもに疲弊していく。自分はそんなギリギリのラインにいたかもしれない。


遊具コーナーで楽しそうにいくつかの小さな乗り物に乗った後は、上野公園の広場に向かう。例年、桜の時期はブルーシートの海になる上野公園のあのだだっぴろい空間では、子どもはいかようにでも自由に走り回ることができる。近所を歩くときはベビーカーに縛りつけているから、余計にのびのびと動いているように見える。

表情もめまぐるしいほど変わる。なんでもない小石を拾ってじいいっと見つめている。鳩がたくさんいるところに近づいていって、手に取って抱き上げようと追いかける。何かの拍子に鳩がバサバサバサッと一斉に飛び立つ。その瞬間、目を大きく見開いて何が起こったのかまったくわからず固まる。上を見上げて鳩が飛んだということを理解し、手をバシバシっと叩いてキャハハハと笑う。それがうれしいのか、また別の鳩の群れのところに短い足で駆けていく。途中で足がもつれてビタンと転ぶ。転んだことにびっくりして泣き出す。起き上がらせて「ほら、あっちに鳩さんがいるよ」というと、ひゅっと泣き止む。そしてまた目を見開いて鳩に近づいていく。

そうやって、笑って、とぼけて、泣いて、じいいっと見つめて、家の中にいるときよりも、くるくると豊かな表情を見せ、全身を動かして駆けている。

何もなくていいんだ。必要なのは安全な広いスペースなんだ。親が何かを与えるんじゃない。子どもはそのスペースの中で、自分で何かを見つけていくんだ。そんなことを思いながらいつもより力の抜けた表情でわが子を見ている母の表情は、子どもの目にも映っていたはずだ。

おそらく、いつだって子供が必要としているのは「安全な広いスペース」だ。脳内で作り上げられた「理想の母親」ではないことは確かだ。

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