母に会いに行く
家を出たのは、出発しようと思っていた時間を1時間以上過ぎてからだった。まずお花屋さんによって、秋らしい色合いの花束を買った。
車のFMトランスミッターの音が悪かったので、念のため持っていったミニスピーカーでAudibleの「哲学と宗教全史」の続きをかけながら運転する。
一般道は混んでいたが、高速に乗ると問題なく流れていた。カントやヘーゲルの話を聴きながら運転するのは初めてだ(笑)
30分程でインターを降りる。降りてからの道順はいつもうろ覚えで自信がないのだが、それでも身体で覚えているのだろう。間違えたことはない。その場所に行くと、「ああ、こっちだ」と思い出す。
時刻はちょうどお昼になろうとしていた。猛烈にお腹が空いていたが、食事ができる店は限られているし、道が混まないうちに帰りたいので我慢をする。
いくつかの川を超え、踏切を2回渡り、到着したときには、家を出てから2時間近く経っていた。トイレを済ませてから、母のところに向かう。
燃え尽きる前に消えてしまった線香の束が2つある以外は、誰かが訪れた様子はなかった。
ステンレスの花立てと湯飲みをきれいに洗う。スポンジでお墓をこすって汚れを落とし、マイクロファイバークロスで拭き上げる。側面に没年月日が彫られている。昭和62年10月27日。何年経つんだろうと計算をする。
花立てにお花を差し、持っていったお茶を湯のみに注ぎ、線香を焚く。しばらく来ていなかったことを詫びる。最後に来たのがいつだったかも、定かではない。おそらく2年くらいは経っている。だからこそ命日の今日にちゃんと行きたかった。
線香の煙が立ち昇っているような雲の下で、様々な鳥のさえずりや、虫が飛ぶブーンという羽音を聞きながら、かなり長い時間そこにしゃがんでいた。
以前、何かの法事のときに、住職さんがおっしゃっていた。
「お墓参りは、故人のためにするのではないんです。私たち生きている人間のためにするんですよ。お墓はだいたい、自然に囲まれた場所にあります。お墓参りをすることで、そういう自然に囲まれて息をつくことができる。そういうことを、故人がさせてくださっているのですよ」と。
そんなことを言われて、なるほどなあと、10代の頃に思った記憶がある。
子どもたちのこと、自分のこと、姉妹のことなんかを報告して、いつも見守ってくれていることのお礼をいう。
あと何回ここにこうして来られるだろうかと思いながら、「また来るね」と言って、その場を去る。できれば家族みんなでワイワイと訪れたい。
母のお墓には、母のお骨しか納められていない。
これから先、このお墓はどうなるのだろう。
自分はいったいどこのお墓に眠るのだろう。
そんなことを思いながらの帰り道、ANTIQUEというパン屋さんで、「マジカルチョコリング」を3つ購入した。「フランスパン生地のデニッシュに、アンティークオリジナルブレンドのチョコチップをたっぷりとちりばめローストクルミを混ぜ込んだ」という、殺人的なおいしさの、デブ製造パンだ。
おいしすぎていくらでも食べれてしまうので、近くにお店があったら間違いなく寿命が縮まるだろう。お墓参りのときだけ特別に買っているお楽しみだ。
帰りの道中も引き続き「哲学と宗教全史」を、今度はソシュールやヴィトゲンシュタインについて聞きながら、運転する。高速を降りてからがまためちゃくちゃ混んでいたが、そのせいもあって家の駐車場に帰り着くときにちょうど「哲学と宗教全史」を聴き終えた。「なにこの、なぞの達成感」と思ったのだった。
10月は、長男の誕生日と自分の誕生日、そして母の命日がある。1年の中でいちばん、自分の命や家族について考えることが多い。毎年、そういう機会を与えてもらっているのだと思う。
考えてどうにかなるように考えているわけじゃなく、ぼやーんと思いを向ける程度だけれど、それでも、やっぱり、こういう時間は大切だと実感した日であった。