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『これは水です。』by デヴィッド・フォスター・ウォレスと、「自分で考える」ことについて

先日、哲学対話の一環として読書会をやってはどうかという話をしていたときに、素材として2つのテキストを紹介してもらった。どちらも読んだことがなかったので、早速目を通した。自分が参加者だったとしたら、どちらのテキストが考えたくなる「問い」を立てられそうか? 考えることが深まりそうか? と考えながら。

カフカの「道理の前で」

短い。が、いかようにも解釈ができて、その解釈について対話をすることで読み手の「人生観」や「価値観」、「思い込み」が浮き彫りになりそうだ。

読んでみて問いを出してみましょうと言われたら、10個以上はすぐに出せそうだ。「門番は何を表しているのか?」、「道理とは何か?」、「強いとはどういうことか?」、「なぜ主人公は他の選択肢を選ばなかったのか(選べなかったのか)?」、「道理のなかに入りたいと思ったのに、ずっと許可を待ち続ける方がつらくないのか?」、「他にも門番はいるのに、なぜそんなにもその門番に執着したのか?」、etc.

問いを出し合うときに、一つひとつの問いについて、どうしてそこに引っかかったのかと、その背景を聞くだけでも、その人の物の見方、価値観が見えてきそうだ。さらに、問いについて話しあって、それぞれの人のこの短い話の解釈を聞くことで、自分にもどんどん新しい解釈が生まれてくるだろう。このテキストを入口に、おもしろい対話が展開していきそうだ。



デヴィッド・フォスター・ウォレスの「これは水です。」

※翻訳本も出版されていますが、元のスピーチは同じなのでこちらのブログを参照します。

これは対話の素材として読むというよりも、一個人として純粋に興味を掻き立てられてしまった。

デヴィッド・フォスター・ウォレスのスピーチは、あの有名なスティーブ・ジョブズのスピーチよりもいいと、一時話題になったそうだが、恥ずかしながら私は知らなかった。一時期、ジョブズのスピーチを丸暗記して、毎朝化粧をしながら音声を聞いていたくらいなので、こういったスピーチは結構見たり聞いたりする方だが、どこかで目にしていただろうに、ひっかからずスルーしていた。ジョブズのスタンフォード大学でのスピーチと同じ2005年に、ケニオン大学の卒業式で行われたものだ。

早速、日本語訳を読んだ。

その後、英文を読んで、
David Foster Wallace’s 2005 commencement address at Kenyon College

そして実際のスピーチの音声を聞いた。


たしかに素晴らしい内容だった。何より、有名な作家というだけあって、表現がイキイキ豊かだ。

ただ、内容について考える前に、いったいどんな人がこのスピーチをして、何が彼にこういうことを言わしめたのか? を知りたいと思った。調べると、この素晴らしいスピーチをした人は、自殺をしていることがわかった。なぜ自らを死においやったのか? をさらに知りたいと思い、デヴィッド・フォスター・ウォレスへのインタビュー本を元につくられた映画を観た。


映画『人生はローリングストーン』

原題は「THE END OF THE TOUR」

米ローリング・ストーン誌の若手記者デヴィッド・リプスキー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、新進気鋭の作家デヴィッド・フォスター・ウォレス(ジェイソン・シーゲル)に興味を持ち、密着取材を申し入れる。新刊のブックツアーに同行することになったリプスキーは、気さくなウォレスと意気投合するが、次第に彼の心の闇の部分が浮き彫りになり、二人の関係がギクシャクし始める。うつ病、アル中、自殺未遂、さらにはヘロイン常習の疑いも・・・。気まずい雰囲気の中、リプスキーは5日間の取材を終え、ウォレスと別れるが、12年後、恐れていた悲劇が突然やってくる。
(prime videoより)


デヴィッド・フォスター・ウォレスの人となりをほとんど知らないで観たものの、「これは水です。」のスピーチをした人という呼び水があるので、何を大切にして、何を恥じていて、何に苦しんでいて、ということがとても伝わってきた。

印象に残ったセリフがいくつもある。

ニューヨークは息が詰まる。あの街ではエゴの収縮する音が大音量で聞こえる。「Me, Me, Me, Me! 」
「文章を読めば書き手の論調がつかめる。それが特技だと気づいたんだ。偽造者みたいにどんな書き手にもなれる」


ウォレスは、大学生の頃、うつ状態になり、自殺をしそうになって病院に監禁されたという過去がある。そのときの苦しみを、映画の終盤近くで、こんな風に語っている。最も印象に残るシーンだ。

原因は脳のせいでも、ドラッグでも酒でもない。
俺の究極のアメリカ人的生き方のせいだ。
XとYとZさえ手に入ればすべて安泰、そう思ってた。
心を病むというのは、どんなケガよりもつらいんだ。
幻想の中では誰よりも有能なんだ。
だけど人として機能できないんだ。
最悪の気分だ。
人はきっと変われない。
昔と同じ自分が残っているから。
主導権を奪われないよう抵抗している。


映画全体を通して感じたのは、ウォレスという人物の、まっとうな謙虚さだ。等身大の人間として、同行した記者のリプスキーに、自分をさらけ出している。もろく、傷つきやすい自分さえも。全米でブックツアーをするほど著名な作家でありながら、常に一人の等身大の人間でいようとしている人、そういう印象だ。


あらためて、「これは水です。」を読んで

映画を見たおかげで、スピーチで述べられていることの背景が少し理解できたように思う。アメリカ的価値観や考え方というのは、暮らしたことがないので本当のところはよくわからないが、「XとYとZさえ手に入ればすべて安泰」というセリフで「achive」という単語が使われていたように、達成の原理のことをいうのだろう。

そんななかで、ウォレスは、自分がそういう価値観で育ってきたこと、そういう自分を心の底から嫌悪していること、それが苦しみのもとであると気づいたものの、そこから自由になれないことで、もがいていたのではないか。

そう思うと、スピーチの言葉の重みがぐんと増して迫ってくる。ちょっと長くなるがいくつか引用する。

もう少し謙虚になること、自分の存在や確信していることを見つめ直すことこそが、「自分の頭で考えること」の意味するところではないでしょうか。
一つ、ぼくが「自動的に正しいと信じてきたこと」の例を挙げましょう。それは、ぼくの周りにあるものは、「『ぼく』は最もリアルで、鮮明で、大切な、宇宙の絶対的中心に存在する」という信念を支えるためにあるということ。
あなたの生きるセカイは、あなたの前、後ろ、右、左にあり、あなたは、あなたのテレビを見て、あなたのスクリーンを眺めています。他人の気持ちや考えは、なんらかのかたちであなたに伝わる必要がありますが、自分のものは即刻で、緊急で、リアルです。
大学を卒業して20年が経った今、リベラルアーツ教育の肝である「自分の頭で考えられること」というのは、「自分の頭で考えられるということは、何について考えるか、ある程度自分でコントロールできる術を学ぶこと」を端折ったものだ、とようやっとわかってきました。つまり、研ぎすました意識を持ち、自分が考えるべき対象を選び、自分の経験から意識的に意味を抽出できるようになること。これができないと人生はツラいものがあります。
こういった日々のつまらない、苛立ちを覚える場面でこそ、先に述べた「考える対象を選択すること」が重要になるのです。道路の渋滞も、混雑したスーパーの通路も、レジの長い列も、すべて考える時間をくれます。そこで、何を考えるか自ら選択しないと、ぼくは買い物をする度にイライラすることになります。
そう考えることは、簡単で自動的すぎて、選択しているとはいいません。いわばデフォルト設定です。何も考えず、自分がセカイの中心にあると無意識に思い込み、自分の感情と欲求が物事の順序を定めているという理解のもと、つまらない、イライラする、混雑した生活を過ごせば、自然とそうなります。
何を考えるか選択する心の余裕があれば、レジで並んでいる、目の死んだ厚化粧の母親が子供を怒鳴る光景を、少し違った目で見れると思います。
唯一無二のシンジツとは、「どう物事を見るかは自分で選択できる」ということです。これこそが君たちが受けた教育が生み出す自由の意味です。「適応力がある」という表現の意味です。何に意味があって何に意味がないのか自分で意識的に決められること。何を信じるか自分で決められること。
セカイの中心にぽつんとある、1人1人の頭の中の、頭蓋骨サイズの自由の王国。確かにこういった自由は大事ですが、自由の定義は他にもあります。欲求と達成にとらわれた社会では無視されてしまう自由です。その中でも特に大事な自由が、まわりに注意を払い、意識的にものを見つめ、自制心を持つことで得られる自由。誰にも見えないところで、毎日毎日、自分以外の人々のことを思い、彼らのために犠牲をはらい生きる自由。それこそが本当の自由です。それこそが本当に教育を受けるということです。それこそが自分の頭で考えるということです。


ウォレスのいう「自分で考えること」とは、私たちにとって当たり前にある空気や、魚にとって当たり前にある水のような、「刷り込まれた自動思考」にドライブされるのではなく、そしてそれをまったく疑わないことではなく、想像力を持って自分の見方を選んでいく、と受け取った(今のところは)。


自分の体験を思い出す

このスピーチを読んで、以前、自分の見方がガラッと変わった体験を思い出した。

数年前のことだ。スーパーである雑誌を買おうと、雑誌がささっているラックの前に行くと、初老の女性がカートを横向きにおいてラックの正面をふさぎ、何かの雑誌を熱心に見ていた。

私は「じゃまだなー、他の人が見れないじゃん。周りが見えてないなー」
と思いながら、その女性の横から手を伸ばし、何種類かある雑誌を手に取り、パラパラ見ていた。

するとその女性が、横から私の顔をじーっと見てきた。「そんなに露骨にジロジロ見るなんてぶしつけな人だなー」と思っていると、

「ねえ、おねーさん」と声をかけられた。

「はい?」(何か文句言われるのかな?)と内心思いながら返事をすると、

「これ、いくらって書いてある?」と、その女性が手に取っていた雑誌の裏側に書いてある値段を聞かれた。なんのことはない、老眼で値段が見えなかったのだ。

「1,080円ですよ」と答えると、

「ありがとう。目が悪くってねえ」と笑いながらお礼を言い、女性はカートにその雑誌を入れ、立ち去った。

ほんの数秒のことだが、自分が世界や人をどのように見ているのか、反省させられる出来事だった。

「いくらって書いてある?」と聞かれる前の自分は、その女性を「迷惑をかける人」としてとらえていた。だが、聞かれた後の自分は「助けを求めている人」と捉え直し、優しい言い方で「1,080円ですよ」と答えていた。

その瞬間に認知がパチッと変わったことに、自分でも気づいた。だったら最初から、後者の認知で世界を見ることができればいいのにと思った。その選択を最初からできるようになることが、ウォレスのいう「自分で考える自由」を持つということなのだろう。


さらに理解をするために

こうなったら、一躍ウォレスを有名にした作品『 Infinite Jest 』を読みたいところだ。映画のなかにも「本を読むと作家の頭の中が見える」というセリフがあった。作品を読むことでもっと交われるのではないか。アメリカの大学生の本棚には、この本がだいたい置かれているという(読んだかどうかは別として)。だが、1000ページを超える大作で、日本語訳は出ていない。

英文がkindleで安く手に入るので、ひとまずお守り代わりに購入した。kindleであればWORD WISE機能(英語による単語の意味の説明)が使えるし、日本語への辞書機能もついている。ちびちび読んでみるか。いつか日本語訳が出てくれたらと念じながら。Audibleの体験期間中は無料で聴けるから、音声を聞きながら英文を目で追うとちょっとはわかりやすいかも?


自分で考えるための第一歩は、問いを出すこと  

あらためて、自分で考えるために重要なのは、考えるスタート地点になる問いを出すことだと私は思っている。そして問いを出すときに、様々な視点から問いを出してみるということも、同じように大切だ。自分という固定された視点からでは、世界は同じようにしか見えないからだ。

そう思うようになったきっかけを最後に書いておきたい。
最近は自粛期間のため参加できていないが、昨年、ハンナ・アレントの『人間の条件』の読書会に初めて参加したとき、私は思考停止に陥った。

アレントの研究者の先生から「国民国家とはなんですか? 」という問いかけがなされた。

そんなこと、これまで考えたことがなかった。
国民国家とは、国民主権の国家だ。誰かが答える。

「じゃあ国民とは何ですか? 何を持って国民とするのですか? 」
その国に戸籍がある人が国民だ。また誰かが答える。

「じゃあ、戸籍のない人は? たとえば日本には、1万人の無戸籍者がいる。その人たちは日本国民ではないのですか? インドや中国にいけば、無戸籍者の数は日本の比じゃない。その人たちは国民でないのですか? 日本人と、日本国民の違いはなんですか?」

私はずっと思考停止したままだった。

この読書会では、先生からアレントの本に出てくる言葉、概念について幾度も問いかけがされる。その度に、自分は普段たいして考えもせず本を読んでいたのだと、愕然とした。

それ以来、何かの言葉について、その言葉が表している概念について、いちいち立ち止まって考えることが増えた。「それ」と「それでない」の違いは何なのか? 著者は何を持ってそう言っているのか?

そんな風に、いちいち問いを持つことは、じゃっかん生きにくく疲れるものの、ものの見方を変えてくれる。広げてくれる。

では、問いを持つにはどうしたらいいのか?

あらためて「問いを出そう」、「問いを持とう」といわれると、かしこまってしまうかもしれない。

「ちょっとした疑問」
「わからないなと思ったこと」
「どうしてだろう?と思ったこと」

くらいでいいのだと思う。そういうことをいちいち立ち止まって考える。

子どものとき、私たちはそんな毎日を過ごしていなかったか。子どもはみんな、「どちてぼうや」じゃなかったか。


最近私は、オンライン哲学対話に参加する度に、その時間の中で浮かんできた「ちょっとした疑問」を書きだして、それについて考えるという、一人メタ哲学対話みたいなことをやっている。

それだって、十分に、自分の頭で考えることだと思う。
そして、普段からそうしていることが、ウォレスのいう「自分で考える」に近づくことではないかと思っている。

といいながら、ウォレスの「これは水です。」を読んでの問いだしは、ちょっと先延ばしにしたい。あれこれいろんなことをごっちゃに書いてしまったので、今頭の中が messy だ。

いやあ、長くなった。これは金曜の夜にはふさわしくない。昼にUPしておこう。夜は夜でまた(たぶん)。

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大前みどり
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