笑いと一口にいっても、いろいろあるのだ
朝の散歩の途中で、石材屋さんのやや強烈な石像を見つけた。
福々しいなあと思って目を引かれつつ、じゃっかんの引っかかりを感じた。右目が少し汚れているのか、薄く目を開けてこちらを覗き見ているように感じるところが少し不気味だ。
でも、こちらの布袋さんは、つられて笑顔になるような、自然な表情に映る。
そんなことを考えるともなく考えながら、こういうときこそ、笑うって大事だよなあとあらためて思っている。それが石像を見てつられて「ほほ笑む」であっても、お笑い番組やyoutubeをみて「がははは」と屈託なく笑うことであってもいい。
昨年、北海道浦河のべてるの家の見学に行った。また、東大での当事者研究シンポジウムや向谷地生良さんの「支援者の当事者研究」の勉強会にも参加した。べてるの方々のつくる場は、いつも笑いに溢れている。いつもそこに「笑いの泉」が湧いているかのようだ。
※べてるの家や当事者研究についてはまた今度詳しく書きますが、こちらをぜひご覧ください。
それは単に、ユーモア好きな人が多いからというわけではなく、浦河べてるの家の理念に裏打ちされた場づくりがされているからだ。
当事者研究という場には、不思議と笑いとユーモアが溢れています。「ユーモアとは、にもかかわらず笑うこと」と言われるように、ユーモアは、苦しい現実から距離をとり、苦労に打ちひしがれないために人間に供えられた力であり、究極の”生きる勇気”だとも言われています。
この「笑い」の力―ユーモアの大切さという理念には、こんな意味が込められている。
笑いとユーモアが溢れる当事者研究を何度か見学させてもらったが、たしかに誰かの弱さ・苦しみを、そこにいるみんながともに考える場になっている。そして、当事者の人だけでなく、そこにいる誰もが(私のような見学者も含め)、「この場は安心して自分らしくいられる場だな」と感じられる空気が生成されている。実際に私はそう感じた。
勉強会で、向谷地さんが話していた話も印象的だった。
以前向谷地さんの講演会か何かに、「マヨネーズから真珠をつくって、儲けたい」という当事者の人が来たそうだ。
こういうとき、普通家族は「何言ってんの」と聞き流すか、心配して病院に連れて行こうとする。でも、向谷地さんは積極的におもしろがって、迎合するのだそうだ。
「ほんとにできたらすごいね~!」
「特許とったら大金持ちだね~!」
そうすると、当事者の人は笑顔になる。自分の言うことをまともに受け取ってくれる人がいる、と安心して、それまで家族や医者からちゃんと聞いてもらえなかった自分のことを語り出す「心の余裕」ができてくる。そこから一緒に「当事者研究」が始まっていくのだ。
私は、そんな場を目撃したり、そういう話をお聴きすると、
「笑いが大切だ!」
「笑いの中に、人の心を理解する本質がある!」
と「笑いに関する本」を買うという行為に走る傾向がある。以前ぱっと目についた本を並べたらこんなに集まっていて・・・
「まじめか!」とつっこみたくなるところだが、これはこれで、ある意味その「感じたこととやることのズレ」のようなものが「滑稽」なのではないかと思っている。
でもまあ、そんなふうに「まじめに考える」んでなく、純粋に目の前のこと、体験を「おもしろがる」方が、健康的で生産的でいろいろ役立ちそうだよなあと思っていた。最近までは。
でも、ちょと待てよ。
「笑い」と一口にいっても、いろんな笑いがあるではないか。
冒頭の写真の、ちょっと腹黒そうに見える笑いとか、べてるのみなさんのユーモア溢れる笑いとか、笑いの本を買いに走るという嘲笑をさそう笑いとか、思わずくすっとしてしまう向田邦子さんの「あるある」と感じさせる笑いとか。
つらくてどうしようもない状態のときに出る力ない笑いとか、怒られているときや緊張しているときに無意識に浮かぶ笑い顔とか、お葬式の読経のときなどになぜかこらえられなくなってしまう笑いとか。
考えれば、他にもたくさんの種類の笑いがあるはずだ。
そこで私は、懲りずにまた中村明先生の本を買った。
今日は第1章「笑いをめぐる理論」に目を通しただけだが、笑いには本当にいろいろあることがわかる。例えば、「笑いの質」に関してのところだけでも、こんなに笑いの種類が出てくる。
破顔一笑・呵呵大笑・爆笑・哄笑・失笑・冷笑・憫笑・苦笑・微笑・微苦笑・嬌笑・艶笑という漢語風の笑いから、大笑い・豪傑笑い・ばか笑い・高笑い・せせら笑い・さげすみ笑い・あざ笑い・薄笑い・薄ら笑い・苦笑い・泣き笑い・そら笑い・つくり笑い・愛想笑い・ふくみ笑い・忍び笑い・思い出し笑い、あるいはほほえみ・ほくそ笑みといった和風の笑いまで、質の違いもさまざまだ。
さらに、アリストテレスにはじまり、スピノザ、ニーチェ、デカルト、ホッブス、スタンダール、ボードレール、カント、ショーペンハウエル、ベルクソンなど、多くの哲学者、思想家、作家が、笑いに関して論じていることが述べられている。
日本における笑いの歴史についても、『古事記』『万葉集』から近現代の文学作品にいたる数々の文書、川柳・俳文・狂文・狂詩・狂詩・雑排などの作品、田楽・狂言・落語などの芸能をあげ、概観している。そのようにして和洋の笑いの様相がつまびらかにされている。
加えて、これが中村明先生の真骨頂なのだが、これでもか、これでもかと、数々の作品から、笑いに関しての描写部分を引いている。
錆びたフライパンをたたいているような声で、新吉へ媚びるように笑っていた(椎名麟三)
笑いを小さい気泡のように濡れた唇からふき出して(大江健三郎)
その慨然とした心意気は――はゝゝゝゝ、悲しいじゃないか、勇しいじゃないか(島崎藤村)
不安と居たたまれない哀しみとで胸が一杯なくせに、私は生意気な皮肉な微笑を自分の口もとに貼りつけた(三島由紀夫)
ほんとに一部だけど、それぞれの笑いの様子が目に浮かぶ。引用されている描写を読むと、こんなにも人間の笑いというのは、糸を撚るようにして成り立っているものなのかと、感銘を通りこして、ぽけーっとしてしまう。
第1章の最後には、笑いの体系表としてそんな数々の笑いが分類されている。見にくいと思うけど、そしてこれだけを見てもなんのこっちゃだと思うけど、写真で紹介。
第2章からは、ことばによる表現のおかしみを分析し、笑い生成のメカニズムを考える内容が続いていくとのこと。これから読むところだ。
笑いについて「まじめ」に考えることは、かなりおもしろそうである。よって「まじめか!」と言われても、もうちょっと「お勉強」しようと思うのである。
後日、また続きを紹介します。