その人の言葉や行動の奥に何があるのか?
昨日の朝、facebookでたまたま目にした誰かのシェアを見て、目を丸くした。
詳しいことは省略するけれど、「ある人の投稿」した内容に対して、「批判的な投稿」をした人がいて、そこに便乗するように、その「ある人の投稿」に対しての「否定的なコメント」がずらーっと続いていた。
(ちょっとぼかして書いているのでわかりにくくてすみません)
よくyahooニュースなどでそういう「否定的なコメント」は目にするけれど、どこか他人事というか対岸の火事のように見ていた。だが、今回は自分がとてもよいと思っていた「ある人の投稿」に関しての「否定コメント」だったので、まるで自分が言われているような複雑な気持ちになった。
「そんな見方や受け取り方があるのか!」と愕然としたというか。
で、反射的に反論や否定をしたくなった。
そこでふと我にかえって、散歩に出た。川を眺めていると、そのことはすっかり頭の中から消えて、いつの間にか「まあいっか」となった。
1日たって、おそらくまだ気になっていたのだろう。「それにしてもなんかすごかったなー」と改めてそのことが浮かんできて、それと紐づくようにしてMBTIのセッションのことを思い出した。
MBTIとは
2017年にMBTIの体験セッション(ベーシックとアドバンス)、2018年にSTEPⅡのセッションと、合計3回参加した。
MBTIとはユングのタイプ論をもとにした、世界45カ国以上で活用されている国際規格に基づいた性格検査で、一人ひとりが、自分の心を理解し、 自分をより生かすための座標軸として用いることを最大の目的にしている。
他の心理検査と大きく違うところは、MBTIに回答した本人が、 自分についての洞察を深め、自分のベストフィットタイプ(もっともしっくりくるタイプ)を見つけ出す過程(プロセス)そのものを重視しているところ。
MBTIの指標は4つあり、その組み合わせにより16のタイプに分かれている。
EI指標:外向(E)-内向(I)
どこに関心を向けることを好むか。どこからエネルギーを得るか?
SN指標:感覚機能(S)-直感機能(N)
どのように情報を取り入れることを好むか?
TF指標:思考(T)-感情(F)
どのように結論を導くことを好むか?
JP指標:判断的態度(J)-知覚的態度(P)
どのように外界と接することを好むか(生活やライフスタイルのあり方)
右利き、左利きと同じように、心にも利き手があるという考え方で、素の自分は自然体ではどういう心のスイッチが入りやすいか?を見ていく。
どちらが正しいとか、どちらが良いとか、どちらが優れているとかではなく、「利き手」と同じでそっちの方が使いやすいため、その志向の行動を発達させやすい傾向がある。ただ、右利きの人でももちろん左手がつかえて、訓練次第で発達させられるように、自分と反対の志向が使えないというわけじゃない。
日本ではよく血液型が話題になるけど、アメリカだと血液型よりもMBTIのタイプを聞きあうことが多いそう。メジャーリーグとかでもみんな受けてチーム作りの参考にするんだとか。
セッションに参加しての気づき
セッションでは、結構な時間をかけて一つひとつの志向について説明や演習があり、それを通して自分のタイプをその場で理解しながら自己像を作っていくような感じだった(粘土でペタペタと像を作っていく感じ)。あとは十数名の参加者がそれぞれのタイプに別れて話をしていくので、タイプごとの違いがものすごくわかりやすかった。
セッションに参加していると、人は本当に違うんだなということがものすごくよくわかる。すべての指標において、自分とは逆の人がいる。
4つとも重ならない、真逆の人がいる。自分と正反対の人だ。
あまりにも違うので、永遠に理解し合えないんじゃないかという気もしてくる。このときの衝撃はすごかった。
今でも忘れられない講師の言葉がある。
「自分がまったく何の価値もないと思っていることを、人生で一番大切だと思っている人がいることを理解してください」
そして、MBTIの元の理論を提唱しているユングも言っている(うろ覚えだけど)。
人生の前半はもともとの「利き手」のタイプに光があたっているので、反対のタイプは自分の「影」になっている。
だけど人生の後半こそ、意識して違うタイプの心の使いかたをしていくことで、全体性に向かっていく。
それを「個性化」や「自己実現」という、と。
ようするに、自分の中の光も影も全部自分として統合していきましょうねということなのだろう。
私はこのセッションに参加して、本当によかったなあと思っている。
自分の生きづらさ(やりづらさ)や他者とうまくいかなかったことの理由を理解することにとても役に立った。
MBTIでは、自分のタイプがわかると共に、自分が苦手なタイプ、嫌いなタイプとその理由がわかる。反対から見れば、自分が嫌われる理由もわかる。
自分ではものすごくよかれと思ってやっていることによって、人が負担を感じたり、嫌だと思ったりすることがあるということもよくわかった。
自分が理解できなかった人が、実はこういうことを考えていたんじゃないかという、背景を理解するきっかけにもなった。
「ぎょっ」としたときにこそ
さて、それで冒頭の話に戻るのだけれど、私が「ぎょっ」とした「否定コメント」を書いた人たちにとっては、その「ある人の投稿」が、自分の大事に思っていることを踏みにじられたとか、無視をされたと感じたのかもしれない。もしくは、その「ある人の投稿」が伝えているメッセージが、とるにたらない、何の価値もないことと思えたのかもしれない。
それに関しては、こうしてMBTIセッションのときの自分の体験に照らすと、たしかにそういうことがあると理解できるし、逆に今まで自分はその視点を持っていなかったのかも?、いや、そうじゃなくて、自分はこう思うなどと、今回考えることができた。
そういう「ぎょっ」としたときこそ、自分の影になってしまっている部分に気づく機会なんだなあということを、昨日今日にかけてあらためて実感している。
自分の中の折り合いがつくと、その人がどうしてそう思ったのかな?と、表面に現れている言葉ではなく、その言葉の背景やプロセスに興味がいく。自分とは違うと線を引いて拒絶するのではなく、そういう背景やプロセスを知ろうとすることの方が大事だなということを、再確認した。
これから、どうなるかまったく先が見えない状況のなかで、自分も含め、心がささくれることも増えるかもしれない。だけど、そういった人の行動や言葉に反射的に反応するのではなく、必ず背景があるということに気持ちを向けられるようでありたいなあと、改めて思っている。
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