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忘れることについて

「忘れる」ということを考えてみると、いろんな側面があります。

人の名前や場所の名前などを忘れてしまう。
覚えていたはずのことが思い出せなくなる。
覚えても覚えても、すぐに忘れてしまう。
もはや覚えることすらできない、とか。

忘れたくないのに次第に薄れていってしまうこともあります。
感覚や感情を伴った鮮やかな記憶のはずだったのに、次第にぼやけてくる。リアルな感覚を思い出せなくなってくる、とか。

部分的に、または、ぽっかりと、記憶が欠落していることもあります。
そこだけ空白になったかのように、何も思い出せない(酔っているときとはまた別で)、とか。

忘れたいのに忘れられないこともあります。
早く自分の中からなくなって欲しいと思うのに、何度も何度も鮮明によみがえってきてしまう、とか。

今日一番考えてみたいのは、忘れたいのに忘れられないことです。

時間が経ってもう別に何とも思わなくなるということもあれば、少しちくっとするけどまあよい経験だったなと思えることもあるし、いまだに思い出すたびに腹立たしさや怖さがよみがえってくる、というようなこともあります。これが重傷だと、日常生活に様々な支障が出るかもしれません。

で。

そういうのって、ひとまず専門的な解釈はおいといて「感情が未消化である」ということが、とても大きなキーワードだと思うのです。

何か、受け止めがたい事があったとき、その辛さや痛みや悲しさ、そしてそれを覆うための怒りや憤りなどの感情から逃げようとして、「見ないようにする」「ふれないようにする」。

時間が経てば解決するという看板をかかげ、自分の中でふつふつとしている感情に「フタをして見ないことにする」。

気持ちを切り替えると言いながら、他のことで単に「ごまかしている」。それを「忘れた」と言って、自分も他人もごまかす。

いずれにしても、受け止めがたい出来事に反応している自分の感情としっかり向き合っていない限り、その感情はなくなるわけではなく、ことあるごとにその感情を刺激するようなことが起こりつづけます。

するとさらに、未消化の感情に向き合わなくてすむようなごまかす技術が上達し、心の壁は頑丈になり、気づいたときには自分ではどうしようもないくらいの鈍感や不感症になってしまいます。

あまりにも頑丈な防壁で閉じ込められた感情によって、身体までが硬直化したり、蝕まれていくことになります。

「忘れる」という字は、「心を亡くす」と書きますが、自分の心(感情)をなかったことにする「亡くす」、つまり「自分の心を殺す」ことは、未解決の課題=カルマを生むだけ。

感情にフタをしただけで放置している場合は、その感情がずっと「自分はここにいるよ」とアピールしてくるので、それに向き合わないですむことをし続けなくてはいけないため、本来向けるべきことに向けるエネルギーが、24時間、365日、生きている限り漏れ続けているということも起こってしまいます。

しっかり自分の心(感情)に向き合って、昇華するという意味で「亡くなって」欲しいものですね。

自分のエネルギーは、循環を通して与えられているもの。無意識に漏れ続けるなんてもったいない!どうせなら本当に必要とされるところで使いたいものです。


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大前みどり
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