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<映画感想>I'm Thinking of Ending Things

どうも、

ノミが白昼夢をみた、です。

Netflixに公開された『I'm Thinking of Ending Things』を観ました。

監督はチャーリー・カウフマンです。

『Synecdoche, New York』、『Eternal Sunshine of the Spotless Mind』『Being John Malkovich』などで知られているあのカウフマンです。

そして、これらの作品を観たことがある方ならわかると思いますが、彼の手がける作品はとにかくストーリーが曖昧です。

ただし、プラスの意味でです。

監督独特の曖昧さが数々の作品を成功させています。

今回の作品もまた同じく、全く意味不明です

これを観てはっきり「このストーリーはこういうことだ!」と言える人がいるならば、

その人はまさにジョン・マルコヴィッチではなく、チャーリー・カウフマンの頭に通じる穴を見つけた以外に考えられません。(誰かみつけてくれ)

映画のほとんどはダイアローグから成っていて、一見ストーリーが展開されているかのように見えますが、

その会話自体を聴くと、とてもじゃないですけど、何言っているかがさっぱりつかめないです。

実際に存在した人物の名前が多く引用されていて、会話がとても詩的でついていくのには苦労します。というか、いろんなところへ飛び散ります。

おそらく何回も観て、やっと気が付く点が多い作品なんだと思います。

何も完結しておらず、すべてが分散している状態の作品ですが、カウフマンの過去の作品と共通する幾つかのテーマは見当たります。

愛、孤独、老い、若さ、デプレッション、そしてアイデンティティなどのテーマが描かれています。

この映画をみていて、どうしても思ったのが、「シネマ・オブ・アトラクション」というタームです。

トム・ガニングという映画研究家が提案した言葉なんですが、彼は1906~07年までのアメリカ映画の特徴をこの言葉を使って説明しました。

シネマ・オブ・アトラクションは、ストーリー・テリングによってではなく、ショックや驚きといった刺激によって観客の注目を引くタイプの映画を指します。

このタイプの映画の特徴として、登場人物がスクリーンに視線を向け、直接観客に話しかけるということがあります。『Deadpool』がいい例ですね。

つまり、登場人物は自分がパフォーマンスしていることを意識しているということなんです。

映画の最後の部分で主役のジェイクがノーベル賞を受賞する場面がありますが、授賞式が行われているのは舞台のセットで、演者は皆リアリティに欠ける下手なメイクで歳を取ったかのように見せかけています。

ここでは思わず『Back To The Future』を思い出しました、、、

受賞の次には、歌を始めたりして急にミュージカルになります。その前には長いダンシング・シークエンスが挿入されていたりして、もう何が起こっているのやら、観客の頭はポカンを超えてポッカラカンです。

私が思うに、この映画にはっきりとしたメッセージがあるとすれば、それは限りになく『Synecdoche, New York』と同じで、全てはパフォーマンスだということです。

一旦、シネマ・オブ・アトラクションというレンズでこの映画を覗いてみると、いろんなことが腑に落ちるような気分になります。

車の窓で「Tulsey Town」のアニーメーションが始まったのも、豚が現実世界に侵入したのもすべてアトラクションのためだった。

ルーシーとジェイクの会話もそうだったのかもしれません。ストーリーを完結させるための会話ではなく、会話のための会話で、自ら完結する自立したダイアローグのように見えてくる。

会話自体がアトラクションになっているような、そんな会話です。

しかしながら、私がここで何をいくら言っても、これを観てしまった人は皆、いろいろ考えずにはいられないです。

無意味だと分かっていても、不可能だと分かっていても、分散した情報を必死につなぎ合わせようとする衝動にかられます。

そうやって、考えれば考えるほど、監督の狙いが実践されていきます。

考え始めたら終わりなんです。

最大限の集中力が要求される作品ですが、この種の映画は非常に稀だと思うので、ぜひご視聴をお勧めします!





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