優しさとは
お褒めの言葉をいただいたときの自分を俯瞰で見るとしんどい。真実か虚構か疑ってないでそのまま受け入れたらいいのに。いやいやってやんわり否定して、再度言われてからありがとうございますと言ってしまうのは日本人としての性質のような気もする。すぐに受け身を取ることができないのは中高の体育で柔道を選択できなかったからもしれない。柔道を経験できていないってのは人生において結構な損失だと思っているので。
かっこいいとかかわいいとかモテそうという言葉は、そうではないという事実に対して逆の言葉をぶつけられているという状況にも捉えることができるので、「そんなことないわ!」と反論をすることでふわっとぼかすことができる気がする。でも、優しいねという言葉に対してはいやいやと否定することすら謙遜と受け止められてしまう時がある。謙遜している人も世の中にはいるのだろうが、自分はそっち側ではないのでいつも困ってしまう。
優しい、これほど音が短くて領域が広い言葉はないように感じる。いい人、素敵な人、好きなタイプ...いろんな場面で使っても違和感のない言葉。だからこそ線引きが曖昧だし、海のように広い言葉だなと思ってしまう。
やっぱり様々な意味で使われている。個人的に優しいと聞いて想像するのは2と4の意味だった。自分以外の他者を思いやるような言動だったり、他者へマイナスの影響を与えないことでありそれをする人の様子だったり。優しいというものは自分から他者へと渡っていく言葉や行動だと改めて認識できた。
漢字の雰囲気からして“人”を“憂う”と書いているのだから、やっぱりそういう認識だよなと思っていた。でも人ということは他者だけではなく自分もその範囲内にあるのだなと漢字を見ていて思わされた。憂うというのは、思い悩んだり心配したりすることである。自分が自分を含めた誰かのことを考えている行いこそが、優しさであり、優しいといわれる人であるのだなと感じる。
自分が優しいねと言われた時に引っかかるのは、どこかに“してあげている”という無意識な上から目線が入っているような気がするからだ。こうしてあげたほうが喜んでくれるだろう、そうしてあげたほうが後々いい感じになるんだろうなってのがどこかにある気がする。これは自分から生まれる全ての言動に含まれているわけではない。ただ、過去にそのような言動が数回あったからこそ、過去のそういった自分が内側にいるから自分は優しくなんかないと突っぱねてしまう。正直面倒だ。でも優しいねと言われたくてやっているわけでもないし、言われるとも思っていないから言われて驚いてしまうのだろうなとも考えている。
優しいってのは、プラスなものとマイナスなものがあると思う。プラスなものは、ある程度想像できる本当にそのことのために尽くせることだと思っている。逆にマイナスなものは、人のために嘘をつくことだったり、気づかないふりをすることだと思う。マイナスなほうの優しいってのは、その行い自体(嘘、気遣いなど)は一瞬見たり聞いたりすればひどいように思えたりするものだ。ただ、裏側とかこちらの事情を知ってもらうとその見えている部分だけが正解ではないんだなと思うものだったりする。でもそれはいつだってこちらの事情でしかないからどうにもならないってのがよく起こっているから切なくもある。
「優しい人が好き」って言葉にはこちらからは読み切れないぐらいの細やかな取扱説明書が内包されているように思える。「(イケメンで)優しい」や「(頭が良くて)優しい」、「(女心をよくわかっていて)優しい」とか「(すごく魅力的で異性からもモテたりするけど自分の元から離れていかず一切浮気もすることがなくて)優しい」とかだったりする。僕らはいつだって()の中の部分を察したり、その部分をクリアしないと優しいとは思われないのだと思う。優しい人がタイプってのはその奥にあるその人の細やかな部分に気付けることで初めて、そいつのタイプに入っていけるのだと思うと大変なんだなって感じる。
タッチは、双子の兄弟の上杉達也と和也と、幼なじみの浅倉南らが織りなす物語で、高校野球を軸に恋愛や命についても描く作品だ。 アニメや映画にもなり、「国民的漫画」として知られている。色々調べていく上で優しさという部分に違いがあるなって思えたものがあったのでここに載せておく。達也と和也の優しさの違いについてわかるような気がした。
例えば達也、和也、南の大好物のケーキが三人の前に一つだけあるとする。
もちろん南は私が食べたいと言う。
和也は自分も食べたいが欲を抑え、「自分は欲しくないから南が食べて」と言える優しさを持っている。
一方の達也は、「絶対自分が食べる!だから南、俺とジャンケンしろ!」と言い、南が最初に何を出すかわかった上で、わざと負けて本気で悔しがるフリをする優しさを持っている。これを聞いた時に、ものすごく共感できた。
こんな感じで優しさというものだけでも様々なアプローチがあるんだなって思う。親切な優しさもあり、ぶっきらぼうな優しさだってある。どちらも素敵だし美しい。でも伝わる優しさもあれば伝わらない優しさだってある。いや、そのような優しさに気づくことができるようになるほうが健全であるのかもしれない。優しさを表現することですら難しいことなんだと思った。
優しさにも様々なベクトルがあると思う。後輩に対してしっかり怒れるのも優しさであり、一つのミスに対して誰にも気づかれないうちにささっと処理してしまうのも優しさだったりする。どれも優しい行いだけれど人それぞれ考えや受け取り方が違うのだから、結局は人と人の相性なんだねと結論づけられる。
人にもっと優しくなりたい。いや、なりたいとかなりたくないとかじゃなくて。そういう意識すら置いていかれたところに本当の優しさがあるように思える。感謝する時もごめんなさいやすみませんじゃなくて、ありがとうと言えるようになりたい。優しくしてもらえたときにストレートに感謝できる人間でありたい。
なんかメビウスの輪をぐるっと歩いてきたみたいでどっと疲れた。どこまでいっても表裏一体だ。人と人なんか相性なんだから。合う人に会う。多分そういうもんだから。