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サイボーグ双角
2021年2月28日 21:46
祖父、祖母、叔母の三人は何とか墨田川東岸の両国橋東詰めにたどり着いた。避難している人は家財道具やら荷物をしょって押すなへすなの大混乱になっている処へ焼夷弾は落ちてくる、火災の火の粉は降ってくるでとうとう三人は橋のたもとまで押し出されてしまった。しかし両国橋の上を渡るものはいない。なぜなら折からの強い北西風、火災による火災旋風で橋の上に出た者の多くは煽られて前に進めない。そこに火の粉が来るから荷物に
2021年2月20日 19:25
1945年3月10日、東京は米軍からの大空襲を受けた。台東区など隅田川東岸地区はとても大きな損害を受けた。母は石川県に疎開していたが、祖父、祖母、叔母は台東区高橋(森下駅の辺り)に住んでおり、夜間に空襲を受けた。祖父に聞いた話を記憶として書き残そうと思う。空襲はナパーム弾(焼夷弾)で行われたので、いきなり多発的に火災が発生した。当日は北風が強い日で空気も乾燥しており、あっという間に周囲は火事に
2021年2月13日 11:33
時は昭和19年か20年ではないかと思う。これは母と母方の祖母の話である。母は疎開(今でいう戦災からの危険避難)することになった。当時の東京は米軍による空爆(襲われる日本人は空襲という)が始まり、被害も出始めたので、住んでいた高橋(今でも地番そのままある。都営線の森下の駅界隈)から石川県鳳至郡門前町(現石川県輪島市門前町)に疎開することになった。疎開というのは個人レベルと学校単位のものがあったら
2021年2月15日 23:10
上野駅から母は祖母に連れられて石川県に疎開に行くことになったのは前回書いた。上野駅でも波乱の乗車が母を待っていた。空襲でのダイヤ乱れ、石炭の不足などで国鉄のダイヤはあってもないようなものであったらしい。この列車を乗り過ごすと次の列車はいつか分からない。意地でも乗らなくてはならない。それに子供連れの女性であったが祖母は勝気な人であった。昔の客車は車両の両端にしか入り口とデッキがなくて入り口で