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多様性についてのメモ
noteの6つのバリュー(会社が大事にすること)の中で、「多様性」は一番難しい概念。
大枠のコンセプトはシンプル。でも細かいとこまで考えると、色々と複雑なポイントがあります。個々のトピックで個別の記事が書けるレベルなので…まずは、自分への忘備録としてのメモ。
多様性の根本
生物種レベルでみた場合、多様性は安定と革新をもたらします。遺伝子プールが多様であることは、有機生命全体の生存確率を高めます。
たしかにアプローチを絞った一点特化の生存戦略は、爆発的なグロース力を持ちます。ですが、そのような戦略は、疫病や災害などで全滅するリスクを背負います。多様性をもった、様々な個体・生存戦略があれば、大きな環境の変動が起きても、どれかが生き残れるわけです。
また多様な生態系は、新しい試みと生存競争が数多く行われるため、生命がより革新しやすくなります。
つまり、多様性は、種(あるいはコミュニティ)に、「激変への耐性」と「広い進化の模索」を同時にもたらします。
「緩やかにゆらぎつつ持続可能性のある、安定系のシステム」です。
人間の視点でみた多様性
多様性を人間社会のレベルで見ると、どうでしょうか。
現在の人類の基本戦略は、「棲み分け」と「選択肢」によって、できるだけ多くの生き方・考え方が、排斥されない社会を作る…ということです。
社会がコストを負担して、できるだけ多くの遺伝子とミーム(情報遺伝子)をプールしていく。そうすることで社会の堅牢性や、未来の選択肢を最大化していくわけです。。
異常とされる形質、異端とされる考えも、時代や環境が変われば有効なものかもしれない。そいういう合意の元で、できるだけキープをしていく。
「色んなものが、いっぱいあるとよい」という、多様性の基本原理はここにあります。
多様性と均一性は違う
ところで、多様性と混同しやすいものとして、均一性というものがあります。
様々なジュースが選べることは多様性。一方で選択肢が、色んなジュースを全部まざたミックスジュース1つだけならば、それは均一性。
この2つを取り違えると、「一見平等に見えるディストピア」が生まれがち。注意が必要です。
巨視的な多様性の観点では、「色々あって色々選べること」が、「全員がイコールであること」より優先されます。
視点のスケールによって多様性はことなる
また多様性は、観測するスケールで変化します。
たとえば共学校は男子校・女子校より多様です。ですが、全ての学校が共学校になったら、逆に多様性が失われます。男子校も女子校も共学校も、どれもあるほうが、トータルの多様性は高くなります。
個々の学校レベルのミクロな視点では、多様性の低いスポット(男子校、女子校)が発生しますが、マクロな視点ではより大きな多様性が生まれるわけです。
同じようにマクロな視点では、時間方向の多様性もありえます。たとえば永遠の平和は、多様性ではなく均一性です。平和があり戦争が起き、様々な政治体系が移り変わりながら、総体として人類が持続可能性と遺伝子プールを広く保持することが、おおきな視点での多様性です。
多様性は絶対善ではない
そんなわけで多様性は、「善」や「正義」か…という観点では、語りにくいものです。多様性の本質は「変化しつつ持続可能性のある安定系システム」です。「善悪」は、人間の社会制度上の規範視点にすぎません。。
たとえば、超マクロな多様性の観点では、「乱暴者」や「嫌な奴」といったものの存在すら、多様性の一貫に含まれます。多様であるということは、「嫌なもの、悪いもの、危険なものすら、生態系の持続可能性を破壊しないかぎりは、存在を許容される」ということです。
これは個人の視点、人間の視点では、必ずしも許容できるものではありません。直感的には受け入れにくい状況も多々生まれます。なので、0か1ではなく、「生態系に持続可能性があるかつ、全体を侵食しない量ならば、自分が受け入れられないモノがあるのも、健全な多様性の一部」という許容性が必要になります。
多様性は居心地が悪くてメンドウである
上述のように、多様であるということは「一定数の合わないもの」「一定数の敵対者」すら内包します。ですので多様な世界は、平和な世界ではありません。小さなイザコザや、メンドウな調整ごとが沢山発生します。
誰もが無条件に幸せな、ユートピアではないのです。そこにはリスクも痛みも悲劇も、依然として存在します。正直にいえば、「気の合う仲間だけで構成された世界」のほうが、確実に居心地がよいものです。
多様性の社会は、全員の生存や選択肢を最大化したコストとして、小さな紛争を数多く抱え込みます。これは、受け入れなければなりません。
寛容が多様性を破壊することもある
「他者への寛容」は、多様性の前提のように思えます。一方で、実は寛容さが多様性を殺すことも多々ありえます。
寛容による破壊は、「不寛容なプレイヤーを無条件に寛容しようとする」ときに発生します。不寛容なプレイヤーを無条件で吸収し、集団内で不寛容プレイヤーがマジョリティをしめたりすると、持続可能性のある多様性は失われます。寛容のかかえるパラドックスです。
機能する多様性には多かれ少なかれ、生存競争としての側面も必要となります。不寛容な侵略的プレイヤーの存在は、多様性には内包されるべきですが、その比率はマイノリティに留めなければ、持続可能性が脅かされます。
自然状態では、なんとなく均衡に落ち着くのですが、理念やイデオロギーベースで人間が運用した場合、「すべてを受け入れる」的な行動をとって失敗しがちです。この辺は、資本主義と社会主義の関係性にちかい構造問題です。多様性は複雑系なので、マイクロマネジメントでは制御できません。
多様性はマイクロマネジメントしにくい
多様性の概念は、カオスや複雑系に属するため、人間が要素を厳密にコントロールすることはできません。
このため多様性のある環境を作ろうとすれば、完全コントロールは不可能です。初期の段階から、事故やトラブル、諍い、異常値などを織り込む必要が少なからず生まれます。
個別の生命をマネジメントするのではなく、全体の天候や温度、土壌や地形をもちいた方向付けのみを行い、そこでうまれる植生のディテールは、あるていど自然の流れと生存競争に任せるほうがよいでしょう。
繰り返しになりますが、多様性は工業製品のような厳密なコントロールは難しいものです。「緩やかにゆらぎつつ持続可能性のある、安定系のシステム」であると、心がける必要があります。
…というように、多様性は大事な要素ですが、まだ自分の中でも完全に消化しきれていません。多様性の社会実装はわりと底なし沼で、自分も大学で「生物多様性」系の授業を受けてから20年ぐらい考えてますが、いまだに答えが出しきれません。でも、まぁ「えんえんと考え続けることに価値がある」ので、皆さんも色々と考えてみてください。
諸々を真面目に考えていくと、ガチの多様性は、ぶっちゃけ「人類にはまだ早すぎる」概念でもあります。個の人間には受け止めきれない。
とりあえずは、「選択肢がいっぱいあることの価値」と「必ずしも居心地のよいものではない」と「平等と多様はちょっと違う」というあたりを、なんとなく意識しながら… できるだけ多くの人が共存できる世界観を考え、議論していければなぁと思います。
以前つくったものですが、おそらく多様性をビジュアライズすると下記のようなものになります。多様な分布がフラクタル構造をなし、停滞なく不安定に変遷しつづける漢字です。
多様性モデルの可視化。だいぶ明快になってきた。こんな感じで、「民族、国家、地域、家族、個人が多重構造で多様であり、過去未来現在が多重構造で変遷して固着しない」というのが、人類史の俯瞰視点で考えるよい多様性なんじゃないかなぁ。 pic.twitter.com/17J4zxAhMs
— 深津 貴之 / THE GUILD / note (@fladdict) January 21, 2020
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