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心の筋トレ、解法

なんぞや。

前回11月の目標みたいな話をした際に思いついた言葉です。
自分の中で腑に落ちました。心の筋トレだ!って。
なんだそれ? って話ですよね。今日はその話をつらつら書いていきます。


「心の強さってなんだろう?」
これについては小学生の頃から考え続けている、僕の中の命題じみたクエスチョン。
僕の答えはタイミングや環境によって形を変えていたように思います。
常に変容しているかのように思える心の強さの意味。
それについて自問自答しながら振り返ってみようかな。


誰かに頼らずとも力強く前進している

ずっとこれだ!と思っていた強さ。
大学3年くらいまではこの説を覆せずにいました。

そもそも僕自身の性格もあるとか思うんですが、人の輪の中心でリーダーをやることに対しての憧れがなかったんです。凄いことだとは思うんだけど。
それよりも、グループに属さずとも自分を持っているような人に対しての憧れとか畏敬の念とか尊敬が強かった。本当にかっこいいなと、今でも思ってます。

仕事をしている今となっては、得意な部分で支えあう人間関係が良いと思います。社会性が要される今だから到達できた思考だとは思うんですけど。

…そんな孤高の存在に憧れて、色々実践しました。
一人で活動するためには、一人で色々出来なきゃいけないんですよね。当然だけど。
人に聞けば済むようなことをわざわざネットや図書館で調べました。
制作でも人に頼らないため画像編集や映像編集ソフトの勉強を一人でやってみたり。
大学では代返などという愚劣極まりない行為が横行していたのですが(言い方)、そういったことも頼らずに大学生活を送ってみました。
僕が美術大学に行っていたこともあってそこまで浮くこともなく、そのうえ意外な収穫がありました。

色々と自分で解決しようというマインドが根底にあったからか、問題の処理能力が底上げされました。
誰に聞けばいいんだろう、誰を頼ればいいんだろうという思考よりも先に「どうすればクリアできるだろう」と考える癖がついたのはとても良いことだと感じました。

が。

その代償も大きかった。
今でも悩んでいることですが、どうにも人に上手く頼れない。

これって社会で生きる上で致命傷なんですよね。マジで。
「自分でやろう」が最上位のマインドに設定されていることの弊害は大きかったです。特に社会人一年目。

他人の目からは「プライドだけは高い奴」という風に見えていたかもしれないな…今になって思います。

結局大学で勉強したようなことだけで仕事ってできなくて、業界の内情や人間関係、社会情勢等あらゆる要素を理解し飲み下さないといけない。


「結局は人と支えあわないとろくな大人になれないよ!」
これが僕の見出した現時点での答えですね。


頼るべき時に人に頼れる強さ

これが最強だ。うん。
これはなんでもかんでも人に依存してりゃ良い、ってもんでもなくて(やったことがないから間違いか立証できないんですが)、適切な度合いが重要だと思ってます。

前述したとおり孤高の存在への憧れから単独行動を好んでいた僕ですが、その反面それだけじゃ「終わっちまう」こともそれとなく感じていました。何故かって?みんな楽しそうなんだもん。

そうなんですよね。人と話すのって楽しいんですよね。話さない期間を経て改めて感じたことです。

だから、サークルに入りました。大学周辺の小学生を中心に図画工作を教えるサークル。本当に楽しかったです笑
何故か子供から好かれるパッシブ持ちというのもあったのですが、同じ大学の仲間と成し遂げる って行為自体が今も僕の中で成功体験として生き続けています。やってよかった公文式(?)

それだけに留まらず、芸術祭の実行委員もやりました。しかも二年続けて。これに関しては成功も失敗も味わいました。要するに良い経験ってやつ。
大学全体と関わって、何百という学生と話してイベントを成功に導く。これって死ぬまでに何度もできることじゃないですね。

そういった共同作業やグループワークを経て、
「人と生きるのも悪くないな」
と改心した魔王のような感情が芽生えました。

色々と考えてきて。

孤高の存在が外に対して与える、雰囲気の良さとか独り立ちしていることへの憧れとかに対して魅力を感じるのも正解。人ととの繋がりを大切に出来ている人への羨望の眼差しも間違ってないんです。どちらも評価の視点として間違っていない。要するに選択の問題だと…頭では分かっているつもりなんですけどね…

どちらかに寄せようとすると反対側が綺麗に見える現象、隣の芝はなんとやらなのかホメオスタシスなのかは分かりませんが。とにかくなりたい自分が固定されていないことが一番の問題なんでしょうね。

…などと普段から考えていることを「心の筋トレ」なんて呼んでいるわけですが。
なりたい自分に振り回されているだけともとれますね。というかそうなんじゃないか?????

「強く生きます」
辛い時とか弱っている時、口癖のようにつぶやいている言葉です。
強く生きる宣言 というより強く生きたいという願望の吐露みたいなものなんですが、その「強さ」が何に起因しているかについて悩んでいるという感じ。
その定義について考え続けることが一番の心の筋トレだと思ってます。

その他は基本的に「寂しい」とか「苦しい」とか「悲しい」とかネガティブな感情をどう処理するのかモヤモヤして、なんとなく落ち着くまで待ってる時間のこととか?自重トレーニングみたいなもんですよね(違うかも)。

むずい。

長々と書いてきましたが、自分の内側を作り替えることって本当に難しい。本質から改変するって並大抵の努力じゃ実現しないんですよね。心からこうなりたいと思っていて且つそこに向けた適切な努力ができないといけない。そこまでの労力をかけてまでなりたい!と思うイメージがないと無理ってことですね。

僕はまだその辺りがふらふらとしているのかもな。
筋トレ筋トレ。


最近確信したことがありまして。
僕は寂しい人間だと。人が好きなのか嫌いなのかよく分からないままここまで生きてきたんですが、多分本質的には人が好きなんだと思います。話したいし、笑いたいし、共有したい。これらってひとりじゃ出来ないことです。
もちろん人間の嫌いな部分もあって、そういうマイナスって目立つというか記憶に残りやすい。だから何か思い出す度に「人間ってクソだ…」となります(自分という人間も含めて)。

そういう愛憎の四則演算の果てに残った人たちを心から大切にしたい。
大切な人たちと貴重な時間を有意義に共有したい。
表層的な関係があまり好きでなく、腹を割って話せる仲を構築したいタイプなのですが…この話はまためちゃくちゃに長くなりそうな予感しかないのでまたの機会に。


心に負荷をかけ続けると、心が強くなると思いきやぶっ壊れてしまう。
これだけは肝に銘じなければならないです。これだけは。
なにも考えずに空とか海を眺めたり、絵を描いたり、寝たり、歌ってみたり、踊ったり、笑ったりするのが心には良いんだろうなぁ…そう思いません?


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