"開かれた誠意"

前置き

以下は友人との会話をきっかけにふと考え始めた内容を、今までの思考内容と絡めて文章に起こしたものになります。※1~3は注釈です。

無知の何が問題か

ここでは「無知は罪ではない」という言葉について考察してみよう。

まずは文自体の解釈が問題になる。おそらくだが、この言葉は無知そのものについて言及しているのではないかと思う。仮に無知への態度などの無知自体に接触している領域に(まで)言及していると仮定すれば、過激な主張にもなりかねず、好意的解釈とは呼べなくなるであろうことが予想されるからである。

以下では無知自体が罪ではないとしたうえで、態度のうち、罪と言える部分はどこかについて論じていくとしよう。ただし、ここで「罪」とは「刑を科すべきもの」というような意味合いではなく、単に「道徳的に悪と言えるもの」を指すとする。これも「無知」の部分と同様に好意的解釈と言える。

さて、こうなると2つの考えが浮かんでくると思われる。
無知の自覚がないことが罪」(①とおく)と「無知を改善する意欲がないことが罪」(②とおく)である。他にも様々想定されるのかもしれないが、ひとまずこの2つについての印象を見てみる。

①:これは自分と正面から向き合うことを重視していて、無知の知(不知の自覚)にも通じる。
②:これは結果よりも過程を重要視していて、動機説にも通じる。

私は初めは①がふさわしいと考えていた。しかし、「人との関わり」という視点で考えれば②の方が適切ではないかと考えるようになった。

敵意や嫌悪を持っていない他人と対話するうえでは、特にその人や話題についての自分の無知を認識し改善しようとする誠意が必要となる。一方独りの状態であったり、自身と向き合うという姿勢をとっていたりする場合でも、少なくとも自覚、認識をしていることが望ましいが、無知を決め込むことは先述の自覚はもちろん、正当化や不可能性、他者を貶めないことなどを条件に許容される。そうでなくては、それこそ無知がまるで罪であるかのように扱われている状態であり、居心地も良いとは言えないということは想像に難くないだろう。

すなわち、一人でいるときは①、他人と関わるときは②がふさわしいだろうというわけだ。あからさまな無関心を見せるのは失礼だ。もっと言えば、①は自覚、②は自覚に加えて改善への意志が必要とされており、集団でいるときは意志が要請される。安定した社会には規範が必要不可欠であるのと同様だと理解される。

なおこのことは例えば、オタク間における「にわか」問題にそのまま応用することが可能である。オタクは「一人」と「複数人」という場面を行き来する。日常生活では主に前者であり、後者は例えばイベントへの参加とその後の感想会、グループ内での会話、ツイッターでの会話、エンカウントなどであろう。にわかであることは悪ではなく、知識をもっていることはオタクであるための必要条件ではない、すなわち「オタクであるならば知識をもっている」⇔「知識をもたないならばオタクではない」は偽であるというのは周知の事実であるが、少なくともその自覚が必要であり、他の同志と関わる際には加えて、特に話題について知ろうとする実直な態度が求められる。なお、知識がないならオタクの定義に反すると感じるのであれば、ファンなどと言い換えればよい。また、急にオタク語りを仕掛けてきて断りきれずに聞いているなどといった状況はありうるが、その際はこの限りではない。
この場合に限らず個人の自由、ありのまま、人それぞれが強調されることは多いが、このような、とりわけ他者との関わりにおいて正義はあって然るべきだろう。(※1)

このようにして見ると①、②ともに誠実さを強く重要視しており、私もそれを受けて論を展開していることが改めて分かる。
誠意や倫理を前提としないコミュニティーも、それで上手く成立するのであれば一つのあり方ではあろうが、ここでは扱うことができない。おそらく早まって悪であるとの結論を下すことになる。これをきちんと論じるには、誠実さを前提としない議論、すなわち、まるで道徳自体の是非を問うようなちゃぶ台返しの議論が必要になるからである。

※1:「正義」はしばしば誤解されている語である。中国的な「義」のイメージが強いのか、はたまたサブカルで描かれるもののイメージが強いのかは分からないが、西洋的なjusticeに従って定義するのが自然であろう。この語はもちろん、絶対的な正しさ、妥当性、善という意味の他に「公正」という意味も強い。また、社会の中で話し合い同意を得ることで決定する取り決めという意味合いも強く、法律やそれを用いて行われる裁判のように属人性には左右されないイメージであると考えればよい。(正義の女神の天秤を思い浮かべよ)したがって、よく言われる「正義中毒」「正義の暴走」「正義を振りかざす」「正義の反対はまた別の正義」などはどれも誤りであるか、言葉の使い方、定義の認識が間違っている。これでは、正義という名が、本来意図していると思われる、少数の者が行う不正でひどい状況という体、または価値観が多様であるという体を表していない

悪質な相対主義

このように、まるで個人と共同体を対立させるかのようなかたちで論を進めてきた。次にこれを"悪質な相対主義"の論に応用してみることにする。

そもそも、"悪質な相対主義"を私が認識するようになったきっかけはツイッターである。"悪質な相対主義"と私が今呼ぶことにしたタイプの主張を普段から見かけ、印象に残っている。リツイートにより多く拡散されて回ってきた投稿も数多かった。ツイッターでは日々多くの人たちの言葉に触れることになるため、遭遇率が高い言説は頭に焼き付きやすい。具体的に例を上げれば、「意見は人それぞれだし議論は無駄」といったものである。私がフォローしていて日常的に関わりのあるアカウントにはオタクが非常に多いが、"悪質な相対主義"はこのようなオタク特有のものではなく、一般に現代日本では先程と同様に少し違ったかたちでも多く見られる。よってこれはオタクの属性に起因するものではなく、一般的な性質が現れているとするのが妥当と言えるだろう。

このような主張はしばしば拡大され、交流、特に理解し合おうとする営みに対してでさえ"無関心"を呼び起こすことになる。そのような行為は少なくとも他者の前では失礼であり、やめるべきだ。

また、より広範に言えば主体的真理と客観的真理についても同様であり、少なくとも"悪質な相対主義"は個人で完結する前者でしか許容されえない。世界や自然、論理、社会、倫理などを扱う後者では基本的には、絶対的真理を仮定し、懐疑しながら少しずつ知を推し進めていく科学的態度が求められる。後者でも悪質"でない"相対主義が許されることはあるが、それは決して議論を無意味にするような代物ではなく、あくまで主に懐疑を促す役割を担っている。(とはいえ、それを差し引いても私は、科学的な「絶対性はあるか答えられないし、難しいかもしれないがそう仮定して謙虚に挑む」という態度が好きで、思考が活用できる場面ではよく採用している)

なお、他との関わりの中でも無知を許容するように無関心を伴う相対主義的スローガンである、"みんな違ってみんな(どうでも)良い"というような言葉を用い、お互いに上辺の肯定を行うことで成立しているコミュニティーについてはこの文章の趣旨と外れるため、ここでは論じないものとする。

議論における、無知に"対する"不誠実

議論における不誠実は悪質な相対主義による議論自体の破壊の他にも存在することを指摘しよう。

さて、議論(論争でもなく罵り合いでも論破の応酬でもない、協力してより正しい結論を得ようとする営みであることに注意せよ)には批判的思考が必要不可欠であり、批判的思考は以下の2×2=4つの要素の循環から成り立つ。以下のいずれかでも欠けると議論が立ち行かない蓋然性は上昇する。また、上手く循環させることができない場合も然りである。

自己理解・自己批判・他者理解・他者批判
(勘違いが生じやすいので念の為説明しておくが、批判とは非難や誹謗中傷と同じ意味ではない。また、否定的な意味でのみ使われるわけでもない。したがって「主張についてなにかしら判断や評価をする」という意味である。確かめたければ辞書や検索エンジンで調べればよい。私は音の印象が「ひ(≒否,非)」「はん(≒反)」であるために誤解を促進していると推測する。しかし、漢字を見れば意味は明らかである。また、まるで目的語が自己、他者という主体になっているように映るがもちろんそうではなく、対象はあくまで主張の内容であるということを理解しておいて欲しい。簡単に表現するにはこうするしかなかったのだ。)

この文章では他者との関わりの話をメインに進めているため、中でも他者理解、他者批判について注目する。

他者理解と他者批判の双方が欠けている場合、これはどうして議論に入ってきたかが良くわからない。あるとすれば、例えば誹謗中傷などが目的であって議論だとは思っていなかったり、愚かにも他者理解や他者批判を通じて自己理解や自己批判も進むということに気が付かずに、自己中心的かつ一方的な関係を望んでいたりするということになる。これはインフルエンサーに多いように思う。

他者批判が欠けている場合、先程論じたようにこれは相対主義者による議論破壊で発生することが多い。一旦立てた議論を無に帰してしまうことは望ましくない。ただし、例えば「犬と猫のどちらがよりかわいいか」などあまり論じる価値のない議題を立てているようなことはないものとする。

他者理解が欠けている場合も厄介だ。専門家への素人による批判にありがちであるが、前提となる知識を持ち合わせないままに批判を行うばかりでは空回りしてしまう。これに加え、詭弁を扱う能力をもつとさらにこじれ、一般の人たちの支持を集め、知識人として扱われるようにまでなってしまう。

しかしながら、このような確かに不誠実で批判的思考に欠ける人物、特に他者理解の欠けた者と対峙する際に始めから執拗に煽ったり、一蹴してとりあわなかったりする者がしばしばいるが、それこそ同じ穴の狢であることを指摘したい。
なぜなら、その者もまた他者理解と誠意に欠け、〜してから言えという詭弁(論点ずらし)を使うことになるからだ。ある意味これも悪質な相対主義と同様にニヒリズムをもたらす。冷笑主義と呼べば良いのだろうか。
確かに相手は無知でありかつ不誠実でもある、つまり②の態度が欠けているが、だからといって、同じ陥穽に陥ってはならない。例えるならば、日本が他国に侵略されたら逆に侵略し返すようなものだ。
このような場合、まずは相手の主張の内容を理解し批判を行い、少し経てば相手の無知が分かってくるので「あなたには議論に必要な理解しようとする態度や前提の知識がないのではないか」と伝えればよく、わざわざ初めから煽ったり無視したりする必要はない。(とはいえ、そのような者と少しでも話すというのはかなりの労力が割かれる行為であるというのは理解できる)

ところでこれに似た構造を持ち、同時に誠意に関する問題というだけなのだが、最後にもう一つ書かせてもらう。再びオタクを例に挙げるが、考察やアニメ、声優オタクに関するトラブルをしばしば見かける。それは、その中でも考察をするオタクや、アニオタ、声オタを嫌悪し、あまつさえ初心者で入りたての者を染め上げるようにそのヘイトを発したり、他方を勧めることにより意図的に誘導する行為である。人によって楽しみ方は違うのだから互いに立ち入らないようにすべきという相対主義的な考え方はそこそこ広まっている(※2)が、その中でもやはり未だ存在し、私自身それに遭遇し関わったこともある。先述したように相対主義的態度も無関心から理解しようとする姿勢を欠くことはあるが、これらの方が複数の視点からより悪質である。

1つ目は単に誹謗中傷であるからだ。それ自体が少なくとも悪であることのみにとどまらず、心理的安全性を下げることで、知性のはたらきを妨げ、もの言えぬ雰囲気を作り上げてしまう。
2つ目は初心者を狙い、他方を衰退させようとするその悪徳さ、そして相手をまるで洗脳するかのように選択肢を初めから剥ぎ取るという残酷さである。とにかくその楽しみ方を愛するオタクと未来ある初心者の双方に失礼でしかない。また、「"洗脳"を受けても後に目覚めることのできない者は考察には向いていないだろう」というような詭弁は通用しない。これは例えるならば、算数の授業で"いきなり"「みはじ」や「くもわ」"のみ"を教えるようなものである。いくら正確に理解してもらえないだろうからといって、積極的に思考停止の暗記に走らせたり、非本質的もしくは完全な誤りであるものを意図的に教えたりしてはならない。つまり仕方なく分かりやすくするために選択肢を絞る行為はありうるが、"始めから"絞るのは良くない。他方を下げて他方を上げること、そしてヘイトを込めるのはさらに良くない。ちなみに、「それも表現の自由であろう」という反論は誤りである。「表現・言論の自由を守る」とは、口を塞いで黙らせてはならないということであって、批判することは表現の自由の抑圧ではない。表現の自由の論理をはき違えている。(※3)
最後に、この章の通り、相手を理解しようともしない不誠実な姿勢である。相手がいる場で発信をしているのだから、基本的に②が必要であるはずだ。

※2:まるでフラクタルのようなのだが、楽しみ方という次元でもまた相対主義が見られ、そのなかでも考察も人それぞれであるという者は数多い。しかしここでは文学批評を例に取ると、必ずしもそうではない。文学史上、「作家論とテクスト論」「絶対的解釈と相対的解釈」などの立場で争いがあったが、総じて言えることとしては、理解とは現在の読者が勝手に解釈することとは異なり、同時に過去の時点での意味や作者の思想による背景、意図にばかりこだわっていても良くないということである。作品の当時の、または作者の意図した"意味"を尊重し、困難かどうかは関係なくそれを目指しつつも、時には現在の読者の関心、視点からも読むということこそが、作品を対話的に理解する(解釈と批評)ということである。詳細はエリック・ドナルド・ハーシュ氏やハンス・ゲオルク・ガダマー氏らの議論を確認すると良いだろう。私の理解が誤っている可能性も否定できない。
※3:これと同じような反論に、「それも多様性であろう」というものもあるが、同様に誤りである。なぜなら、その人の存在は認めても、それは主張を肯定する理由にはならないからだ。存在を消し去ることは、主張を否定することとはまったく異なる。多様性とは言うなれば「存在の多様性」である。しばしば「多様性を認めるのならばそれを否定する者も認めなければならない」ということが寛容のパラドックスとは別に多様性のパラドックスなどと呼ばれることがあるが、「存在するか」と「批判」が別であることを考えればパラドクッスなどではない。言葉の定義が正しく理解できていないというだけだ。「多様性を認める」の認めるとは、主張を付和雷同に受け入れることではなく、その者たちを"認"識することである。私自身もしっかり学んだというわけではなくすべてを理解できてはいないのだろうとは思うのだが、実際多様性についてはこれ以外にも多くの誤認識がまかり通っている。それについてはまた別の機会にでも書くとしよう。

最後に

再三にわたり私に身近なオタクを引き合いに出しましたが、私の観測している部分はたかが知れています。しかし、再度主張することになりますが、これらの性質は非オタクでも一般的に見られ、オタク、より詳しく言えば「私が見ているオタクの一部」のもつ特有の属性と関係が見られないので、一般的な傾向として捉えられるのではないかと考えます。

私自身、まだ学び考えてから書くべきことが多くあるということを自覚しています。具体例を挙げれば、ペトラルカ『無知について』やショーペンハウアー『知性について』など、参考にしたい本は多くあったものの、浪人生という身分ですし時間もないので諦めることにしました。

改めて、「人と真剣に関わるとはどういうことか」を考え直す機会になればと思います。

もちろん相対的な見方というのは一つの大きな進歩で、完全に打ち捨てるべきものではないと非常に強く思います。実際、あまり思考の介在しないところでは有効で、私自身「差別するな、偏見を抱くなと正論を言えるオタクが、その口で、畑の違う、または同じコンテンツでも楽しみ方の異なるオタクに、平気で例えば"民度"という言葉を用いるなどして差別や偏見を垂れ流したり、先述のように楽しみ方をヘイトを込めて否定し始めてしまう」ということを強く批判していますが、その際相対主義的な「互いに潰し合うのはやめよう」も強調しています。しかしながら、あまりに悪質な相対性が強調された反動かは分かりませんが、やはり私は"しかるべきところ"での「普遍性の力」を信じています。
(とはいえ、相対的な考え方とフラットな世の中の影響なのかは分からないが、近頃は私も含む若者の間では親しい少数の友人や家族、才能、出生などに絶対性が据えられそれにすがることも多いようで、実際の傾向は違うのかもしれない)

私が明確に気が付かないというだけで、連想ゲームのようになっていて接続が上手くいっていない部分があるのではないか、あまりに感情的だったり、論証が不十分だったりするのではないかなどと疑っていますが、ここでひとまず筆を置くことにします。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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